名作の舞台                                              □ 山形県山元町 本文へジャンプ

山びこ学校
無着成恭


               



 山間の学校は、この春、八人の小学1年生を迎えた。昨年四人、一昨年が五人、2年生との複式学級が続き、4年ぶり、1年生だけの教室が戻ってきた。 文集「山びこ学校」を生んだ無着成恭先生と四十三人の子どもたちの母校、「山元小・中学校」は小さな学校に変わっていた。

 終戦後、この中学校で、2年生の作文や詩を集めた文集がつくられた。貧乏に向き合い、生き方をさぐった作文が心をうった。昭和二十六年に出版されるやたちまちベストセラーになり、当時の文部大臣もやってきた。戦前の教育が否定され、新教育への模索が続くなかで、この生活綴方は山の学校を戦後教育の“メッカ“に押し上げた。

 カヤ葺きの寒村の学校は、戦後の一時期、四百人もの子どもでふくらんだ。しかし先生がいない。代用教員が入れ替わり立ち代わり教壇に立った。師範出の無着先生の着任は夢のようだった。 「なにしろ元気がよくて、熱心でね。足りない備品は泊まり込みで作り、腹が減れば裏山の墓地の供え物を川で洗って食べさせるメチャクチャなんだ。だけどその熱意にひきつけられた」と村に残ったクラス代表の佐藤藤三郎さん(63)は振り返った。 教育課程も試案、教科書もそろっていない。混迷だったからこそ無着流の人間教育が息づいた。

 「雪がコンコンと降る 人間は その下で暮らしているのです」(石井敏雄)。3行の詩は寒村のいまを訴えた。 「僕の家は貧乏です」と書きだした作文「母の死とその後」(江口江一)は文部大臣賞に選ばれた。弟妹が親戚にもらわれ、祖母と二人になった少年が残された畑とともにどう生きるかを考える。藤三郎さんは、炭焼きの仕事を書き、村の暮らしを記録した。足元の生活を見つめた戦前の「生活綴方」運動が蘇った、と関係者は作文を読んだ。

 貧しい暮らしのなか高校に進んだのは四人だけ。ほとんどが中学だけで社会にでた。「国語や社会は、町の高校でも通用したが、英語なんてからっきし駄目。りっぱな人間教育だったが、一般的な知識には欠けていたね」。藤三郎さんは市教育委員をつとめ、いまも地区の教育後援会長である。

 三角ドームの体育館、校舎も鉄筋三階建てになった。いま小学生33人、中学生26人の小中併設の学校に先生は20人。保護者のうち、専業農家は一軒だけ。、ほとんどが市街地に通うサラリーマン家庭だという。 「米作や山仕事だけでは食っていけない」とおじいちゃんがほそぼそと狭い田を耕す。かっては労働力だった子供たちはいまや「宝」、畑仕事を手伝うこともない。子供たちの生活も変わった。 


 学校では、野菜を作らせ、季節にはわらび採りもセットする。都会の子と変わらない。体格も学力も市街地には負けない。むしろおちこぼれがなくて、肥満児がいない、と武田笑美子校長はいう。「少人数なので選択肢がない、平均的なことができても上に伸ばせないのが悩み」。教員室前のガラスケースに「山びこ学校」の文庫本と映画のシナリオが置かれていた。山びこを思わせるのはこれだけだった。

 山間に、集落の屋根がポツリポツリと見える。過疎化のなかで地区の人たちが集まる機会も少なくなった。それでも杉山での下草刈りの後は酒で盛り上がる。31歳で死んだ江口さんらが、貧乏からの脱出を願って造林した杉は大きくなったが、いまは杉では暮らせない。その杉山が人の心をつなぐ。


むちゃく・せいきょう 昭和2年、山形生まれ、山形師範卒業後に山元小中学校教諭、作文教育で成果をあげる。明星学園を退職後、千葉県成田の禅寺の住職。



☆ メモ 昼間、旧山元村で人影を見ることがない。若い人たちは町に働きにでて、お年寄りたちばかり。無着さんは「やはり地元の人ではなかったんですよ」と話す。