名作の舞台                                             □ 北海道小樽市 本文へジャンプ


若い詩人の肖像
伊藤整



  小樽商科大学は駅から山に向かう急な坂の上にあった。かって伊藤整や小林多喜二も地獄坂とよばれるこの坂道をのぼった。こじんまりしたこの国立大学はことし創立90周年を迎える。

 「若い詩人の肖像」は、いまからおよそ八十年前、十七歳でこの官立学校に進学した「私」の感動から書き出された。「私が自分をもう子供でないと感じ出したのは、小樽市の山の中腹にある高等商業学校に入ってからであった」。
 身の回りがとつぜん自由になって大人の世界が広がった。ためらいながらもいつの間にかなじんでいく私。汽車通学で知り合った女学生とも大人の交わりを続ける。小説は多少のフイクションをまじえながらも事実にそって書かれた。登場人物の「私」をつきはなし客観視したためか、自伝にありがちな臭みがない。むしろさわやかな青春小説になった。

 小説に書かれた六年間の「私」は、高商に通う勤勉な生徒、生真面目な中学校教員、詩人を志す商大生であった。その反面では、内向的で性的に早熟な若者の顔を持つ。恋人の重田根見子との狂おしいほどの交わりの中で冷ややかに言う。「私は根見子を全人格的な恋愛で愛していたのではなく感覚的に愛していたのだった。結婚や家庭という考えをそれに結びつけると壊れるような形で私は彼女を愛していた」。その身勝手さも小説の中では、一種の青春の形とみえてくる不思議さがある。

 伊藤の故郷「塩谷」は小樽市郊外の海辺の町だった。弓なりの石狩湾の向こうに恋人とさまよった砂浜が広がる。この湾を見下ろすゴロタの丘に文学碑が建っていた。碑には病床で筆をとった「海の捨児」の一節が刻まれていた。近くにあった旧居も取り壊され、わずかに残った伊藤の足跡、海からの風がなでて過ぎた。

 若いころ伊藤は詩人を夢にみた。友人にすすめられて読んだ藤村の詩集に惹かれ、「イメージにおいて空想的、字句において平易である詩を好んで書いた」のである。中学校の宿直室で編んだ第一詩集「雪明りの路」は反響を呼んだ。高村光太郎から「名状しがたい感情に満たされました」と手紙をもらって、詩人への夢をつなぐことになる。

 東京商大に進学がきまって自信と野心をもって上京する。しかし自分の叙情詩が、新しい時代の流れについていけそうもないと知る。父親の危篤の知らせで帰郷する夜汽車の中で思う。「自分の心の内側の働きはまだオレには分かっていない。そこには闇の中に閉じこめられた複雑な機械のようなものがある、そしてそれがオレにはまだ分かっていない。そこをのぞいてみるのは怖ろしいことで今のオレには出来そうもない」。

 伊藤は「チャタレー裁判」を体験、「日本文壇史」の執筆が一段落したところでこの長編を仕上げた。五十一歳になって振り返った自伝である。「通俗的との批判があるなかで自分の原点は詩だったことを確め、示したかったんですね。それが小説として成功したのは「文壇史」の書き分けの手法を持ち込んだからでしょう」と小樽文学館学芸員、玉川薫さんはいう。

 小樽商科大はこの秋、文学館で開く創立記念展の準備にあわただしい。いくつか高商時代の遺産も新たに発掘された。そんな資料の一つに「生徒銓衡表」があった。「言語明、少年ラシ 酒ハ飲マズ 英語ヲ好ミ詩ヲ好ム」。面接教官による若き日の伊藤整の実像が書き残されていた。
  


いとう・せい 本名・整(ひとし) 明治38(1905)〜昭和44(1969)年 。北海道・松前町生まれ。東京商大(一橋大)中退。詩人を志したが大学時代に創作、評論に転じた。「鳴海仙吉 」「文学入門」「日本文壇史」(全18巻)など。