名作の舞台                                              □ 秋田県横手市 本文へジャンプ


若い人
石坂洋次郎




 取材のカメラマンが珍しく弱音をはいた。「一枚の写真にするには難しいね」。小説には、港町にあるミッション系の高等女学校が登場するが、この横手には港もなければ、私立の女子校もない。しかし地元の人達は、『若い人』の原点は、この横手だといい、石坂も「私の文学は、大都市でもなく、郷里でもなく、十三年間、教員生活を送った横手の町で目立って成長し、そして花を開かせた」と回想している。

 『若い人』は、県立横手中(横手高校)の国語教師をしながら書き続け、昭和8年から12年までの間、「三田文学」に断続的に連載された。石坂作品は面白く映画化されたこともあって、明るい青春小説とみられがちだが、『若い人』は、重くて考えさせる展開が評判になった。石坂は後になって、「当時の暗い実生活から抜け出したいために華やかで放恣で無惨で美しい人間の崩れいく精神と肉体の歴史を綴りたかった」と話したという。わが子を亡くし、妻に去られたうつろな生活が底流にあった。
  新任教師、間崎慎太郎は、五年生の美少女 江波恵子の作文を読んで衝撃をうける。私生児としての生い立ちを語り、父を知るためにも男を知りたいという早熟で怪しい告白だった。間崎は、同僚教師の橋本スミに理知的な魅力を感じながら、江波にも思いを寄せる。偽善性や卑怯さをもつ典型的な日本人の間崎。教育論やプロレタリア文学論、恋愛論をたたかわせながら物語は展開する。
 雪の「かまくら」で知られる横手の冬は深い雪にうもれる。だから短い夏は一段と明るくみえる。小高い横手城跡からは、大きくうねった横手川、その向こうに鳥海山が光る。その町の一角に石坂は十三年間、住んだ。「決して気の休まる生活じゃなかったんですよ」と石坂洋次郎文学記念館の高根喜由館長はいう。「ここでは文学を語る相手もなく孤独だったんです。しかも奥さんが『主義』のために恋人を追って出奔してしまうんです。先生が偉いのは、その苦しさを逆手にとって名作を残したことなんですね」。
 横手中学時代の石坂は、「よが(夜蚊)」というあだ名がついた。やせていて、声が小さかったからだという。その夜蚊が、「若い人」のなかでもチクリチクリと時代を刺した。「天皇陛下は黄金のお箸でお食事をなさるんですか」「海軍士官の短剣は鉛筆を削ったり、果物の皮をむいたりするんです」、こんな会話の場面が、不敬罪、軍人誣告罪に問われ、教員を辞職するはめになる。恋愛が不道徳とされた時代に恋愛を書き、思想統制の時代にあえてスレスレの議論をする。石坂は本物のリベラリストだったのかもしれない。
  上京して後に石坂は横手を敬遠、文学碑の建立も断り続けた。「でも、横手は気がかりだったんです。東京でお会いすると、どうした、どうなったと横手のことを聞かれるんです。ただ私生活でのトラブルを思うと複雑だったんでしょう」。教え子の一人、医師の高橋昌洋さん(81)。昭和51年に高橋さんらが奔走して城跡に文学碑が建った。「小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成の方がはるかに大きなものがあることを忘れてはならないと思う」。石坂が選んだ『若い人』の一節が刻まれた。

 いしざか・ようじろう 1900−1986。青森県弘前市生まれ。慶応大国文科卒。教職のかたわら「若い人」「麦死なず」などを書く。戦後は「青い山脈」「石中先生行状記」など。

☆ メモ 「かまくら」のない夏の横手は静かな町だった。城から見た町はおおきくうねる川筋がはぐくんできたように見える。