名作の舞台                                             □ 石川県・内灘 本文へジャンプ


内灘夫人
五木寛之


 
 かって米軍の試射場があった内灘の浜は、いまは静かな海水浴場に変わっていた。ニセアカシヤの群落を抜けると、青黒い日本海を背景に白い砂浜がひろがっている。「これがあの内灘なんだ」。四十年以上も前になる。軍事基地化反対を叫ぶ大学キャンパスの立て看板で「内灘闘争」の文字を読んだ。田舎の高校生にとって、なぜかそれが大人びて、新鮮にみえたものだ。
 内灘村(現在の内灘町)に米軍の砲弾試射場の話が持ち上がったのは昭和二十七年九月のことだ。村は日本海と河北潟に囲まれた砂丘地帯にあった。二千世帯のほとんどが沿岸漁業で生計をたてる。試射場ができると、浜での地びき網ができなくなり、風紀も心配だと反対運動が起きた。やがて軍事基地反対闘争と位置づけられて、全国各地から学生や労組員らが内灘にやってきた。
 「内灘夫人」は、この内灘闘争に参加、結ばれた学生夫婦のその後の物語である。霧子は、活動家の沢木良平に誘われ内灘に出かけ、デモに加わり、着弾地付近での抗議の座り込みにも参加した。時を経て、良平は広告代理店社長になり、“内灘“にこだわり続ける霧子との間に溝が深まっていく。
 ある日、夫の良平はいう。「中身だけはあの内灘時代の青年でいて欲しいのだろうが、そうはいかんぜ。おれは汚れてきたんじゃなくて、視野が広くなり、物の考え方に柔軟性が増しただけだ。内灘時代のおれたちは狭い世界のなかで甘ったれた感傷にひたっていただけなんだ」。
 霧子はつぶやくようにいう。「そう、変わることを居直りみたいに正当化して過去を平然と否定してしまうあなたが嫌なの。あの内灘時代は独りよがりの青臭いヒュ−マニズムに陶酔してた気恥ずかしい存在だったかもしれない。でもあそこには大事な物、美しいもの、一片の真実のようなものがあったと思うの」
 半世紀を経て内灘も大きく変わった。霧子たちが座り込んだ権現森の砂丘は、雑木が生い茂る丘陵になっていた。浜に沿ったアカシアの樹林が砂嵐を防ぐようになって寒村は豊かな住宅地になった。樹林の間にぽつんと「着弾監視所」がみえる。わずかに残ったあの頃の施設。コンクリート塊のような武骨な穴蔵から覗くと真下を北陸自動車道が通る。着弾地点はこの道路付近だったとか。浜に残っていた弾薬庫も先年、撤去されて「内灘闘争」はさらに遠のいた。
 大学紛争で騒々しい新宿で、霧子は学生活動家に会う、いつの間にか若き日の良平に重ねる。思い立って訪れた内灘は、やっぱり変わっていた。内灘をひきずる自分。かって座り込んだ砂丘に立って再出発を誓うのである。
 五木氏は、内灘の試射場反対運動と十五年後に起きた大学紛争、二つの政治的状況をまたいで、これに関わった若者たちの夢と現実、そして煩悶を描いた。そして後書きでこういう。「ひどく疲れた感じがのこっています。恐らく『内灘夫人』は私だ、という意識が常に頭の奥に点滅していて、自分の内側を作中人物に託する所が多かったからでしょう」。五十年前、自身もまた、この内灘闘争に参加していた。
 金沢に戻って石川近代文学館で「内灘夫人」に出逢った。六百枚はあろうか、ペン書きの原稿が重ねられていた。その最後のページはこんな風に結ばれているはずだ。
 <さようなら、私の内灘。私の青春−> 遅すぎた出発だが、できる限り遠くまで行ってみようと、心の中で呟きながら、霧子は風のなかで一本の樹のように立ちつくした。

いつき・ひろゆき 1932年、福岡県生れ。早大露文科中退。ルポライタ−、業界紙記者を経て作家に。「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞。「内灘夫人」は昭和43年に東京新聞連載。

☆ メモ かっての米軍基地は私立医大の誘致で医大城下町になっていた。アカシヤが生い茂って砂漠は町に変わっていた。わたしの内灘も遠くにいってしまった
 
 
 
 
内灘夫人