名作の舞台                                              □北海道・岩内町 本文へジャンプ


生まれ出づる悩み
有島武郎


            
 読んだという記憶があっても内容が思い出せない。ただ荒々しい北の海の風景と怒濤とたたかう漁師の姿だけが妙に残っていた。改めて読むと、主人公の画家をめざす執念、「自分の絵」にかけた愚直な生き方がずしりと響いた。

 「生まれ出づる悩み」は、一人の漁師が画家を目指す物語である。モデルは北海道・岩内町に生まれた漁夫画家・木田金次郎。家業の漁の合間に絵筆をとり、やがて絵筆一本の生活になる。生涯、この地を離れず、ただ黙々と故郷の山と海を描き続けた。有島はこの作品で、青年画家を通じて主題につかみかかる芸術的情熱、その苦悩と歓喜を語っている。

 ありったけの油絵や水彩画を抱えて札幌の有島宅を訪ねてきた不機嫌そうな中学生がいた。「君の画がなんといっても私の反感に打ち勝って私に迫ってきた」。こんな二人の出合いから「生まれ出づる悩み」は書き出された。
 七年後の大雪の夜、たくましい漁師になった木田が狩太村(ニセコ町)の有島農場にやってきた。画家になろうかと迷う木田、キリスト教を捨てて文学者の道を模索している有島。二つの迷う魂の触れ合いが作品をきりりと締めている。

 「山ハ絵具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニ描イテ見タイモノダト思ッテイマス」。大正六年十月。スケッチ帳に添えられた木田からの手紙に、有島のこころが動いた。しかし上京を志す木田への返事は冷静だった。
「東京に来た処が知識上に多少うる処あるばかりで腕のうえには何等の所得がないと思います。その地に居られてその地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさるがいいに決まっています」。木田は岩内にとどまり、独自の画境を築くことになる。

 木田が住んだ岩内は積丹半島の西の付け根に広がる港町である。かってはニシン漁でにぎわったが、いまは「魚が減って漁師も減った」(町役場水産課)。日本海の荒波に削られた奇岩の岩場が積丹の岬に続くが、木田が四季をさぐった海沿いの道は海に突き出た「泊原発」で途ぎれた。陸の風景は一変したが木田が描きとどめた自然のうつろいは変わることがない。晩年、描き続けた藻岩(モイワ)も鮮やかな秋の色だった。

 有島の死後、木田は漁業をやめ、絵を描くことに専念する。公募展にも背を向け、売ることもしない。極貧の暮らし。「いつかまた筆を加える時がある」と未完成、サインのない作品が自宅に積まれていた。

 昭和二十九年の岩内大火は千六百点もの作品を灰にしてしまった。 「“モデル画家“との葛藤は、大火で作品をなくしてふっきれたんでしょう。作風も変わって、色、タッチ、色線が走るようになるんです。そのとき六十一歳でした」と木田金次郎美術館学芸員の岡部卓さん。画にきまって「青い太陽」が描かれるようになったのもこの頃からだった。

 4年前、町に木田金次郎美術館ができた。文子夫人が亡くなって、板ばりのちいさな住居にしまい込まれていた遺作が館蔵品になった。木田の作品がやっと日の目をみることになった。さきごろの企画展で、「モイワ」を描いた三部作が展示された。離れ離れに所蔵されていた春、秋、冬のモイワの風景がそろった。

 山の一瞬の姿をカンヴァスにたたきつけるように描いたモイワの風景。「モレアガッテイルヨウニ描イテミタイ」。昭和三十七年、六十九歳で亡くなる一年前、木田は有島との約束をひそかに果たしていた。


ありしま・たけお 1878−1923 東京生まれ、札幌農学校卒業後アメリカに留学。白樺同人で作家活動。「或る女」「カインの末裔」など。

☆メモ 木田美術館はかっての駅舎跡。建築家の木田の長男の設計。荒いタッチの作品。透き通ったような画家の目を感じる作品にうたれた。