名作の舞台                                            □ 鹿児島県出水市 本文へジャンプ


鶴の来る町
水上勉



 
鹿児島県出水市はシベリアからのツルの越冬地としてしられている。この冬も一万二千羽が不知火海に沿ったこの地に舞い降りた。「鶴の来る町」はこの町を舞台にした蜂飼い一家の物語である。

 主人公の渥美刀禰吉は孤独な養蜂業者。幼い娘を連れ花を求めて旅をする。宿で働く鳥本かね子はそんな後ろ姿に惹かれて、やがて結婚。貧しい農家に育ち、あいまい宿の女中だったかね子がやっとつかんだしあわせだった。「鶴の飛んでくる町は、わたしらの結婚した町じゃ」。こんな思いで出水に定住することになる。

 「出水の町は鹿児島本線が熊本県に入る県境近くにあった。海岸の湿田地帯は干拓がすすみ、この田圃にシベリア鶴がくるようになった。鶴の訪れが冬の知らせであり、鶴の去る知らせが夏の到来であった」。いまも変わることはない。干拓地にくるツルは増えつづける。甲高い鳴き声が「日本の音百選」に選ばれるようになって、地元の人たちは複雑だ。

 出水の花が散って蜂飼いたちの移動がはじまった。刀禰吉は、娘をかね子に託して房総に行くことにした。旅立ちの日、刀禰吉はツルが飛ぶのをみた。「鶴は四、五羽ずつのかたまりをつくって、順番に田の面から飛び出てきた。どのあたりから飛び立ったのか、と目をすえたが積み藁が点々と見えるだけだった。しかし黒土の田から、まるで手品師が飛び立たせたかのように数十羽の鶴が飛び立つのを確かに見た」。

 水上が出水を訪れたのは昭和三十四年七月、水俣病取材のおりだった。「霧と影」「巣の絵」などの作品を手掛け、社会派推理作家として知られていた。しかし内心では煩悶していた。「下積みの世界でしか働かなかった私に、社会の仕組みが透けて分かるはずがない。そんな男が急に社会派などといわれてうれしいはずもない。同じ文学をやるなら、もっと人間を、もっと人間の美しさを哀しさを、といったことに心がゆく」。

 ツルは家族の絆が強いという。「集団で飛んでいるようだが実際には三羽、四羽などの親子連れ。帰る時期も一番弱い子に合わせてるんです」と市文化財保護委員の住田勲さん(68)。親子で飛ぶ鶴の姿にシリアスな物語をうかべたのだろう。

 房総で刀禰吉ら蜂飼いたちは雨にたたられた。はやばやと北海道に渡ることにして、蜂の巣箱を貨車便で送りだした。ストライキで列車のダイヤは混乱。蜂は駅に留め置かれた貨車の中で全滅していた。衰弱しきった夫に代わってかね子らの補償交渉が始まった。ストを指導する組合幹部の無責任さ、「前例がない」と補償交渉を逃げる国鉄幹部。壁は厚い。抗議の座り込みに参加していた病身の刀禰吉は死んだ。

 「結局は泣くのは名もないわたしたちだけ」かね子のつぶやきは水上の怒りでもあった。「大きな組織は、一頭の大熊のようなもので、居住まいを直しただけでも、足下の虫は死ぬことがある」。

 かね子が刀禰吉の骨壺を抱き、娘の雪子をつれて出水に帰ったのは秋の終わりだった。かね子はふとここに来た最初の日のことを思い浮かべた。黒土の田圃の上に、白い半紙を散らしたような鶴が幾羽も舞っていた。「雪ちゃん、もうじき、鶴が来るばい。鶴が来る」。
                   

 みずかみ・つとむ 大正7(1919)年福井県生まれ。立命館大中退。業界紙、雑誌編集者などを経て作家に。昭和36年「雁の寺」で45回直木賞。他に「海の牙」「飢餓海峡」など。文化功労者。