名作の舞台                                                    □青森県 嘉瀬
津軽世去れ節
長部日出雄
 かって津軽に「嘉瀬の桃」と呼ばれる民謡の名手がいた。三味線を手に独特の節回しでうたう桃は古くから伝わる津軽民謡をいまのようなかたちに仕立て直した。「津軽世去れ節」は津軽のジョッパリ黒川桃太郎の物語である。
 〈桃は、明治19年7月18日、青森県北津軽郡嘉瀬村に生まれ、昭和6年1月20日の早朝、雪で凍れた青森市古川の物置小屋で、おそらくただ一人、だれにも看取られずにこの世を去っていった〉
 死んでいた場所は厩だったという話もある。地元の人たちが桃の死を知ったのは青森市役所から金木の町役場に送られてきた一通の請求書からだった。請求書は桃を無縁仏として葬った費用だった。

 桃は地方巡業にあけくれ、行く先々では酒をあび、バクチにおぼれた。津軽に生まれた長谷部は、その生きざまを、葛西善蔵や太宰治ら津軽の「破滅型」の系譜に重ねていた。「桃の略歴を知ったときに、溜息のでるような感じで、桃よ、あなたもか、と思ったのである」と書いている。
 明治から大正にかけて津軽地方の馬市や宵宮では唄会に人気があった。鼻筋の通った顔立ち、独特の節回しで美声を響かせる桃の周りに人々は集まった。「ア−アンアンアンア−」。桃の唸りは、豊かな声量で、広い音域を複雑な音階をたどりながら自由自在に上昇し かつ下降し、聴く者を圧倒した。
 〈唸りが終わると唄の文句で自己紹介した。「嘉瀬の桃だば 女郎買い好きだ それは冗談だ 酒ばり好きだ それも冗談だ ボタモヂ好きだ」というのが、きまり文句である。親しみやすいユーモアがあって、聴衆はたちまち桃に惹きつけられた〉というのである。
 気の向くままに桃は即興で歌詞をつくり、節を変えた。7.5調の単調な津軽のヨサレ節も「調子変わりのヨサレ節〜」のイントロがつき、さらに元歌に7.5調三行の歌詞が加えられた。時には世相への皮肉をこめ、それがまた大いにうけた。「いまの世の中 世はさかさまで 嘉瀬と金木の間の川コ 石コ流れて木の葉コ沈む」。桃がどの唄をうたうときでも、この歌詞がはいっていた。

 その昔、嘉瀬の荒れ地で新田開発が行われた。指揮をとったのが人情厚い藩士、汗を流す百姓に決して無理強いすることがなかった。しかしその結果は完成が遅れ、上役からなじられ、同僚からも冷たい目で見られ、不遇の日々を過ごすことになる。主人思いの奴の徳助は、これをみて「石コ流れて…」の唄をつくり不条理を嘆き、無念の思いを訴えたというのだ。

 奴の徳助が立ってうたったと伝わる「奴橋」は小田川にかかっていた。橋の四隅に小さな奴踊りの人形がのっていた。いまも8月には、独特の節回しの踊りの列が橋の上を練り歩く。「桃は旅芸人だったべ、石コながれて木の葉コ、をうたう時にはきっと嘉瀬をおもったんだベ」。嘉瀬の語り部の会の山中長三郎さん(77)はいった。

 「桃節」は歌い継がれていても桃の資料も記録もない。町はずれの観音山に「桃地蔵」があると聞いた。桃を尊敬していた嘉瀬出身の唄手が大工に頼んで刻ませたという木彫。観音堂で暮らした唄子が死んで、暗い観音堂にひっそりと置かれたままだ。 〈桃の生涯は、風に向かって、逆らって行った一生のように思われる。風の力が桃を前に押し進めるように働いた時にも、彼はうしろむきになって、またそれに逆らったのではないだろうか…〉と長谷部は書く。

 太宰治の生家のすぐそばに、町営の三味線会館があった。毎日、若手による津軽民謡が披露されている。「桃節は難しい。その分、味があります。桃さんがいて津軽の民謡は生き残ったんですよね」。ジョッパリの心は若い三味線奏者にもきちんと受けつがれていた。


 おさべ・ひでお 昭和9年、弘前市生まれ。早大中退後、週刊誌記者などを経て作家活動に。「津軽世去れ節」で第69回直木賞受賞。「鬼が来たー棟方志功伝」(芸術選奨文部大臣賞)など。


☆ メモ 嘉瀬に風変わりホテルがあった。国会と大阪城を真似た建物。選挙に立候補するのが趣味の地元の建築業者がつくったという。嘉瀬にはちょっと変わった人が多い。   

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