名作の舞台                                           □ 京都市・高瀬川 本文へジャンプ


高瀬舟
森鴎外



 京都の木屋町筋に風情をそえる高瀬川、その源流は意外に近いところにあった。上手の鴨川でさりげなく取水され、河原につくられたみそそぎ川を下り、二条の「一之舟入」にはいったところで高瀬川となる。にぎわう京の木屋町や四条通りなどをひっそり抜けて、やがて伏見の宇治川に流れ込む。その昔、高瀬川は京の都と大阪を結ぶ水運の大動脈であった。

 徳川時代、島流しになる京都の罪人は、この川筋を高瀬舟でくだって大阪に送られた。護送する同心にとってそれはうっとおしい役回りだった。ある夜、高瀬舟に乗せられた罪人の様子がいつもとは違う。同心の庄兵衛は不思議に思って聞いてみた。すると弟殺しの罪で島に送られる喜助は、これまでの貧しい暮らしと決別できると顔をほころばせ、遠島を申し渡された際に与えられた二百文の鳥目をふところにした幸せをしみじみと話した。

 弟殺しについても、重病の弟が自分に迷惑をかけまいと留守の間に剃刀で自殺を図ったが死にきれずに苦しんでいたのだと言い、弟の頼みもあって傷口の剃刀を抜いてやったらそのまま死んでしまったのだという。苦しむ弟を楽にしてやった、と喜助は自分を納得させていた。

 歴史小説『高瀬舟』は、この運河が舞台になった。江戸時代、嵯峨の土豪角倉了以らが開削した長さ11キロの水路。月明かり、川を下る高瀬舟で交わされる二人の会話と同心の感慨が作品になった。主題からすると舞台は高瀬川でなくてもよかったのでは、とふと思う。

 この川筋を歩いてみた。川沿いの風物で川は姿を変えていく。さわやかなせせらぎが、川端の柳や灯を川面に映してしっとりした流れに変わり、やがて暗渠をくぐりぬけて、風が運んだゴミを押し流して下流に急ぐ。最下流の宇治川にはよれよれとながれこんだ。それは有為転変の人生を思わせる。やっぱり舞台は高瀬川でなければならなかったのだろう。

 鴎外はこの作品の中で二つの問題を提起することになる財産についての観念と安楽死の問題である。罪人が手にした二百文は当時としてはそれほどの額ではない。銭をもった喜びは銭の多少ではない。庄兵衛は我が身と引き比べて「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである」と感嘆する。

 鴎外はこの小説で「安楽死は罪なのだろうか」と疑問を投げかけた。「従来の道徳は苦しませておけと命じている。しかし医学社会には、死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせてその苦をすくってやるのがいいとする考え方がある」とだけ書いた。  

 この話には原典がある。鴎外も『高瀬舟縁起』に書いているように京都の奉行所で同心をしていた神沢杜口が書き残した「翁草」にある話をもとにしている。七百五十字のいわば覚え書きが鴎外の感性で短編になった。この原書を京都市の歴史資料館で見せてもらった。くってみると、安楽死のくだりは「その所行もともと悪心なく、下愚の者のわきまえなき仕業なること、吟味の上にて明白なりし…」とある。鴎外もまた男の立場に深い理解と共感をそそいでいた。

  『高瀬舟』は<次第にふけゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべっていった>で終わる。高瀬舟は、一枚の笹の葉に似た平底の舟。かっての荷揚場の一つ、「一之舟入」のそばの浅瀬に復元されていた。

もり・おうがい 1862−1922。島根県津和野町生まれ。東大医学部卒業後に陸軍軍医に。ドイツ留学の体験をもとに処女作「舞姫」を発表。『雁』『阿部一族』など。

☆ メモ 高瀬川はかって都への運送の大動脈だった。木屋町の町名も材木問屋街だったためだ伏見までくだってやっと分かった。