名作の舞台                                                     □ 兵庫県・淡路島 本文へジャンプ


蓼喰う虫
谷崎潤一郎



  〈美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やっぱりいらっしゃる?」と聞いてみるのだが、夫は例のどっちつかずのあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうという心持ちもきまらないので、ついぐずぐずと昼過ぎになってしまった〉

 なにげない会話から始まる「蓼喰う虫」は、お互いに傷つけず離婚しようとする微妙な夫婦の心理を読みとき、ご主人につくす日かげの女性の姿を操り人形に重ねながら女性観も語りかける。関東大震災を機に関西に移り住んだ谷崎は、上方文化に傾倒、古典芸術に強い関心を寄せる。環境の変化はやがて作品にも影響する。肉感的な女性を好んで描いた作品がしっとりとした作品に変わった。「蓼喰う虫は」は自身の離婚問題を投影しながら書いた作品である。

 斯波要は妻の美佐子に対しては趣味や考え方では違和感がないのだが、どうしても合わない。離婚は時期の問題とされるが煩わしさがつきまとってなかなか進まない。美佐子の父は、古典芸能や骨とうを愛し、年若い愛人のお久を好みのままにしつけて暮らしている。そんなある日、要は義父に誘われ淡路島で人形浄瑠璃を見る。淡路人形に心ひかれ、父にかしずくお久に「封建の世から抜け出した幻影」を見るのだった。

 舞台になった淡路島。谷崎は大正から昭和の初めにかけなんどか訪れた。神戸からの船をおりるとすぐ、洲本の「なべ藤」が定宿だった。〈開け放たれた二階の縁からは船着き場にそった一すじの路をへだててもう暮れがたの海のけしきが展けていた。…別に絶景というのではないが、こういう南国的な海辺の町の趣は、決して関東の田舎にはない〉。この風景も、阪神淡路大震災で変わった。船だまりは埋め立てられ、天保年間創業の「なべ藤」も建て替えられた。谷崎が泊まった八畳間だけは新館に復元されていた。

 谷崎は浄瑠璃人形をかけがえのない古典芸術とみる。だから小説からも谷崎の入れこみぶりがうかがえる。その人形の故郷は三原町だった。淡路人形は大ぶりなうえに面が光って見える。「淡路人形は顔の造りも含めて芸術品、文楽人形は浄瑠璃を語るための道具なんです。谷崎さんの好みも文楽から視覚的な淡路人形に傾斜していくんですね」と町人形浄瑠璃資料館の高田豊實館長は話す。要も、ほの暗い舞台に白く光る淡路人形に女性を感じたのだろうか。

〈ふと、要は、床わきの方の暗いすみにほのじろく浮かんでいるお久の顔を見たように覚えた。が、はっとしたのは一瞬間で、それは淡路土産の女形の人形が飾ってあったのである〉

 かって三原の里には四十余りの人形一座があった。農閑期にはその座が全国に散った。でもいまはない。冷え込んだ夜、中学校の体育館で地元の若者達が練習をしていた。三十年前に町の若者達で旗揚げした淡路人形青年研究会。リーダーの手拍子と掛け声で三人の遣い手たちがどっどっと動く。
 鳴門大橋に近い福良にある淡路人形浄瑠璃館は唯一の常設の公演会場だ。二百席ほどのホールに観客は四人、わが子との再会に泣く「お弓」の人形に命がふきこまれた。「難しいのは人形の心にどこまで近づけるかです」。役者の一人はそういって汗をぬぐった。


たにざき・じゅんいちろう 1886ー1965、東京生れ。東大在学中に第二次「新思潮」を創刊、35歳で「潤一郎傑作全集」。関東大震災で関西に移り「春琴抄」、「細雪」など。

☆ メモ 浄瑠璃人形のルーツは淡路の三原だそうだ。文楽人形は舞台向きにおしゃれに姿を変えたのだという。農産物が豊かな三原では珍しく後継者が育っていた。