名作の舞台                                             □ 京都府亀山市 本文へジャンプ

咲 庵
中山義秀

 

 

 天正10年(1582)6月1日夜。明智光秀は、亀山城に集めた一万三千の兵を率いて、山を越え一気に本能寺に。中国地方攻めを装い、兵を反転させて信長を襲った。いわゆる「本能寺の変」である。中山義秀は、孤高の光秀に、自分の生きざまを重ねて「咲庵」(光秀の雅号)を書き上げた。

 光秀の居城、丹波亀山城は、京都から西におよそ15キロ、保津川にそった盆地の町にあった。堀をめぐらせた城跡は木々がこんもりと森をつくる。広大な城跡は、大正八年に宗教法人・大本が買い取り、布教の本部になった。城は明治時代に取り壊され、治安維持法に問われた大本弾圧事件で石垣さえも破壊されつくした。天守閣跡(写真)にあるイチョウの大樹が「光秀手植の2代目」としてわずかに光秀の跡をとどめる。時おり、野鳥が鳴く、城跡はひっそり静まった神域だった。

 そういえば「咲庵」には亀山城での日常がない。信長襲撃を決断したのも京都の愛宕山だった。「中国出陣を前に愛宕山に参籠したのは戦勝祈願を口実に、じつは神意によって最後の決意をかため、孤独のうちに秘策を練るためだった」と義秀さんは書く。

 京から連歌師を呼び、山で催した「愛宕百韻」での発句は「ときは今 天が下しる五月哉 光秀」で知られる。「とき」を「土岐」、「天が下」を「天下」と読んで、実は光秀の「決意表明」だと言われる。しかし義秀さんは「発句で自分の逆心を漏らすやうな、うつけ者ではなかった」ときっぱりという。

 中国への出陣をひかえて、芝生の座所で、光秀は婿の左馬之助ら五人の大将にはじめて胸中を明かした。「本心をいえば、信長にたいしては、恩誼こそあれ、私怨も私憤もない。しかし自分の胸には、年来の鬱憤がつもりに積もっている。それをこの機に、はらしたいのぢゃ」。さらに問う大将たちに「その鬱憤は、貴様のそこにも棲んでいよう。戦国の虫ぢゃわい」と光秀に語らせる。怨念でも野望でもない、時代が光秀を駆り立てたのだというのである。

 保津川の対岸にある「明智越」は、愛宕山と京都の桂に通じていた。光秀が率いる信長攻めの別動隊はこの道を京に向った。急な山道はいまは健脚向きのハイキングコースになっている。

 この夜、一万人を超す本隊は山陰道の老ノ坂を越え国境の「沓掛」に出た。右に備中道、左は京への道。本隊は左にとって本能寺を目指した。旧街道は国道や自動車道にそって山間に途ぎれ途ぎれに残っている。分かれ道の「沓掛」は、バス停の標識でやっと分かった。「なに本能寺まで、車で三十分もありゃ。大阪もひとっ走りだよ」。軒先で柿を売るおじさんの話で現実にもどった。

 封建社会は、光秀を「逆臣」というひと色に染め上げた。そのせいだろうか光秀についての資料は乏しく、亀山城の築城の時期も、最近になって、天正六年から九年頃とわかった。亀岡市文化資料館館長の黒川孝宏さんはいう。「城が出来て二年後には本能寺の変ですから、領主、光秀への思いは地元にはないですね。しかし、この築城で、江戸期に栄えた亀岡の城下町としての原型が造られるんです。その意味では光秀は亀岡の開祖なんですがね」。

 「咲庵」は、三井寺での秀吉による光秀の首実検の場面で完結する。群衆のなかにまじってひそかに合掌している黒衣、檜笠のの僧がいた。男でただ一人生き残った光秀の子玄琳の姿だった。「人君に臣事すれば、かくのごとし。そなたは御仏に仕えて、救世の僕たることを願え」。光秀はなお、わが子に語りかけてくるようである。こう書いた中山義秀もまた時代を孤独に、不器用に生きた


なかやま・ぎしゅう 1900−1969 福島県生まれ、旧制中学教員をしながら執筆。最後の「鎌倉文士」といわれる。「厚物咲」で昭和13年芥川賞。日本芸術院会員。

☆ メモ 大本教の本部のある亀岡城は出入り自由、とても開放的な教団。義秀さんのお嬢さんが素顔を話してくれた。酔って愛犬を江ノ電に忘れ、乗客が「義秀さんの犬だ」と連れてきてくれたとか。いい時代でした