名作の舞台                                                 □ 福島県白河市 本文へジャンプ


奥の細道 白河の関
松尾芭蕉



  心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ

 芭蕉と曽良は元禄2(1689)年4月20日(新暦6月7日)、那須湯本から奥州路に足を踏み入れ、その日のうちに白河の関に着いた。紀行文の冒頭で「春立てる霞の空に白川の関を越えんと、そぞろ神のものにつきて心をくるはせ」と記した想念の地である。 
 卯の花をかざしに 関の晴れ着かな 曽良

 この白河の関越えは意外に難関だった。来てみてわかるのだが、地元では関の所在が二説に分かれていた。芭蕉らは二つの関を歩くことになった。一つ目は下野と磐城の藩境。いまでいう東北道の県境、当時の道中記でもここが白河の関と記されていた。県境をはさんでいまも二つの神社(関の明神)が並んで建っており、江戸時代の関所のイメージが重なる場所だ。

 もう一つの関は、さらに6`東にある端宿にあった。丘陵地をくねった道が続く。「関の森」は古木で覆われ小高い丘だった。石段をあがると白河神社の社殿がある。幹周り3−4bの杉の巨木には「樹齢800年」の立て札。街道から大きくはずれたこのなにげない森が実は本物の「白河の関」だというのである。

 白河の関の存在は古くから知られていた。平安時代には能因法師らが歌に詠み、歌枕になった。鎌倉時代の一遍上人絵巻にも関の威容が描かれている。ところがなぜか場所だけはわからなかった。寛政12年、白河藩主松平定信が、この関の森を「白河の関跡」と定め「古関蹟」の石碑を建てたことで一応の決着をみる。しかしいまも地元には街道にある関の明神だと信じている研究者もいる。

 「芭蕉の頃は、関の明神が白河の関だとされていました。しかし芭蕉は関の森のことをだれかから聞いていたんですね。関の森は古い官が跡なども発掘され、古い時代にはとりでのようなものがあったことは確かです。だからといって関の森が白河の関だと言い切れないんです」と市文化財保護審議会会長の金子誠三さん。

 「奥の細道」には、関蹟を探しあぐねた記述はなく、不思議なことに芭蕉の句もない。「この沈黙はなになんですかね。歌枕の重さによるものか、それとも絶景を前にして絶句したということなんでしょうか」。いまだに金子さんは結論を出しかねている。

 須賀川はいまも俳句の盛んな町だ。白河からこの宿場町にきた芭蕉はここで長滞在をする。地元の俳人、等躬の屋敷に滞在、町を歩き、俳諧を楽しんだ。屋敷のはなれに住む僧加伸の姿を詠んでいる。 世の人の見付ぬ花や軒の栗
 等躬の屋敷跡はいまは商店とNTT支店になっている。加伸の庵跡だけが狭いミニ公園として残り、栗の若木がひょろりと立っていた。「町の旧跡は大火でみんな焼けてしまった。でも芭蕉風の俳諧だけは受け継がれ、結社の多い俳句の盛んな町なんですよ」と市芭蕉記念館の阪路卓美館長は言う。

 市内各所にある「投句ポスト」には昨年2900句が寄せられた。毎年の特選句は、ぼたん園にある句碑に刻まれる。芭蕉が過ごしたこの町になるほど「風流」が残っていた。

☆メモ 芭蕉の道のりを車でたどった。すごい健脚だ。「隠密説」もうなづける。続いて「出羽三山」を取材したのですが、保存のフロッピーがみつからない。