正岡子規は明治35年10月15日、三十五歳の若さで死んだ。ことしは没後百年にあたる。ふるさと伊予の松山では記念行事が組まれ、一月からは特別展も始まった。「子規を俳人だけでなく、多くの人を巻き込み時代をリードした文化人としてとらえたい」と若い学芸員はいう。
司馬はこどもの頃から父親の書架にあった子規にしたしんできた。ことに「客観主義」に徹した平明でわかりやすい散文に惹かれた。そして人間の明るさと自他に対する異常なまでの正直さに人間的な魅力を感じとっていた。「子規を俳聖というのを聞くとムシズがはしる」という司馬は「坂の上の雲」と「ひとびとの跫音」のなかで、喜怒哀楽をあらわにしながら時代を拓いていく子規を描いた。
変革しようとする人を書く司馬の筆はひときわさえる。だが、子規の周辺の人達をかいた「ひとびとの跫音」では後年、正岡家に養子縁組した忠三郎とその友人、西沢隆二、とごく“ふつうの人“たちをとりあげた。生きざまをたんたんと描くなかで、子規の実像を浮かびあがらせた。この作品にはもう一人の人物が登場する。子規の妹の律、だれよりも兄をささえたふつうの人だった。
〈子規のきょうだいは、三歳下の妹律しかいない。二十代から三十代にかけての七年間、兄の看病のために終始し、そのことにすべてを捧げた。捧げたなどという極端な言いようはこの期間の正岡律にこそあてはまる〉。
根岸の子規庵にとどまり、介抱する妹に病床の兄は容赦ない。骨を切り刻むようなカリエスの痛み、それをまぎらわすように律に当たりちらし、それを文字にした。「律ハ理屈ヅメの女也、同感同情ノ無キ木石ノ如き女也 義務的ニ病人を介抱スレトモ同情的に病人を慰むことなし」(仰臥漫録)。律の前半生は明らかではない。二度の離婚の理由も司馬はこの作品の中で「兄の看病のために実家に帰りますと一方的に婚家を去ったらしい」と書く。
「子規の妹へのきびしさは一種の甘えでしょう。母親への手紙をみると、まず律の結婚話がどうなったのか心配しているんですね。こんなことからもきょうだいの関係がうかがえる」と市立子規記念博物館の長谷川孝士館長は話す。
彼女は子規の死後、三十歳にして共立女子職業学校(共立学園の前身)に進学、卒業後は学校に残り、職員から家政担当の教員になった。そして司馬も思う。<律と母親八重に看病された七年間、物を考え、書き、あるいは来客に自分の思想を伝える。子規にとってこの期間がなければ後世への影響と評価がちがっただろう。その子規の活動の場の一切を律が整えた。律は子規というろうそくの尻に針を突き通している燭台であった>
松山で子規一家の旧跡を訪ねた。町の至る所に句碑がある。しかし旧跡をたどるのはことのほか面倒だった。子規一家が住んだ旧宅跡(写真)は大通りの中央分離帯でやっとみつけた。真下は地下駐車場だという、句碑のすぐそば、排気口が大きく口をあけていた。そういえば東京・根岸の子規庵も旅館街のどまんなかに取り残されたようにあった。それが意外にも子規に似合う風景に思えた。
しば・りょうたろう 1923−1995 大阪市生れ。大阪外語大卒。新聞記者時代の昭和34年に「梟の城」で直木賞受賞。作家活動で文化勲章受賞、日本芸術院会員に。
☆ メモ ちんちん電車で道後の湯にいった。松山駅前から20分ほど。暖房の効いた車内は眠気を誘う。のんびりした町だ。

|
|