名作の舞台                                             □ 兵庫県五色町 本文へジャンプ



瀬戸内少年野球団
阿久 悠


        

 錦の光の帯が瀬戸の海をきらびやかに染めた。淡路島西海岸の五色町は夕日のあざやな町だ。それにしても遠い。「なんにもあらへん所でしょう」。百年近く続く旅館の女主人が言った。

 少年時代をこの町で過ごした作詞家、阿久悠は「瀬戸内少年野球団」を書いた。昭和の二十年代、敗戦で戸惑う大人たちを尻目にこどもたちは生き生きと動く。 女先生のコーチで小学生は野球に夢を託した。昭和五十九年、篠田正浩監督の手で映画にもなった。
<長い歴史のなかで、たった三年だけ、子供が大人より偉い時代があった。その時代を等身大の戦後史として書きたかった>。阿久さんは文庫版のあとがきに書く。

 この海辺の町でふとん店を経営する琴井谷恵民さんも仲間の一人だった。「プロ野球の中継にみんなで耳をかたむけた。なんにもない頃ですから遊びも自分たちで考えた。少年雑誌の付録にある型紙でグローブつくってもらい、ボールは木の芯に毛糸をぐるぐる巻きにしたものでした。そのリーダー役が阿久さんでした」。

 津名港から本四縦貫道をくぐったタクシーは、狭い通りをくねって走った。重い淡路瓦の家並みのあちこちに空き地がある。「地震で取り壊されたまんまですよ」。大地震は、この町をもゆすった。“駐在さん“の子、阿久さんが住んだ駐在所も空き地に変わり、かたわらに「町震災対策復興事務所」の看板のあるプレハブ建物がぽつんと立っていた。

 あの頃。本土からの疎開っ子も加わって、町には子供の姿があった。進駐軍のジープを追い、浜辺では三角ベースの野球に群がっていた。「物がなくっても活気はあった」と割烹旅館主の川崎晴義さんはいう。阿久さんの同級生で物語では「照国」の渾名で登場する。明石から立ち寄る連絡船は人と一緒に都会の風も運んできた。

 物語は、突然、島に戻ってきたバラケツの兄、ブキウキトンボが島を去るところが一つのヤマ場になる。「何で出ていくの」、猫屋のオバハンに聞かれて「何どあったらここにいるわい。何もないから出ていくんやないけ」と答えるブキウキトンボ。やがて阿久さんも去った。連絡船が廃止になって、町の過疎化が進んた。

 珍しく夕日の校庭では,鞄を投げ出し、キャッチボールや走る小学生の姿がみられた。都会から消えた懐かしい風景だ。だけど町の学習塾は夕方から始まる。「この子たちは忙しいんです。放課後は野球だサッカーだとやって、その足で塾に通う。この子たちも結局、町から出ていってしまうんでしょうね」。川崎さんの口調はさびしげだった。

「瀬戸内少年野球団」は小豆島が望める丘の上に残っていた。映画化を記念して町がつくったモニュメント。町が誇る健康道場のそば、手づくりボールを型どった記念碑の傍らに十一人のブロンズ像が立っていた。映画で夏目雅子が扮した駒子先生。龍太、バラケツ、武女(むめ)もいた。「こんな格好じゃトンネルするで−」。小学生たちはくったくない。

 夕陽の町の人口はやっとのことで1万千人台に戻った。町営分譲団地造成で転入者を迎えた。でも六十五才以上の人口が26%、高齢化はとどまらない。隣町との対戦で大敗、龍太たちがすごすご歩いて帰った海岸道路や色とりどりの小石が珍しい五色浜はいまも広がる。なんにもない町には豊かな「自然」があった


あく・ゆう 1937年、兵庫県生まれ。明治大学卒業後、広告代理店勤務を経て作詞家に。「瀬戸内少年野球団」は79年下期の直木賞候補に。

☆メモ 同じ時期、瀬戸内の町で暮らしていたので懐かしく読んだ。初めて訪れた淡路島は自然に囲われていた。