名作の舞台                                              □ 大分県山国町 本文へジャンプ


恩讐の彼方に
菊池 寛


 

 山国川にせり出した岩山をくりぬくようにして「青の洞門」があった。実際には国道212号線。菊池寛が感動的に書き上げた「恩讐の彼方に」の舞台はトンネルを入ってすぐ右、川に沿った薄暗い洞窟として残っていた。

<槌を下してから21年目、延享三年(1746)九月十日の夜であった。力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つが如く何の手応えもなく力余って、槌をもった右の掌が岩に当ったので、彼は思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも月の光に照らされたる山国川の姿が歴々と映ったのである>

 そんな思いに触れたくなって、車が途絶えた夜の洞窟に出掛けた。闇のトンネルにぽっかり開いた明かり採り、そこから青白い光がさしこんでいた。月の光ではない。川の向こうのコンビニの明かりが川面に映えて洞窟に光を投げかける。昼間みた鑿をつかう禅海(小説では了海)の石像が白くうかんで、洞窟内は、静かな時を刻んでいた。

 菊池寛の物語はなかなか刺激的だ。市九郎(後に僧了海)は主人の愛妾との恋をとがめられ、浅草田原町の旗本を殺して逃げる。女の強欲さに腹をたて、己の罪深さを知って出家して旅にでる。何人もの命を落とした羅漢寺詣での断崖の道をみて、絶壁をくりぬくことを思い付く。約三十年間掘り進め、成就したその場では、「父の敵」と了海をねらう旗本の長男が鑿を振るっていた。抱き合って喜ぶ二人の間にはもう溝はなかった。

 「小説はもともとこの地に伝わる実話を基にしたものです。だけど『敵討ち』はつくりごとです。禅海さんが一人で掘り続けたというのも間違いで、托鉢で資金を集め石工を雇って掘ったというのが本当なんです。でも了海さんがいて、耶馬渓も知られるようになったんです」。町の耶馬渓風物館副館長の岩淵玄さん(65)はいう。

 大正八年一月にこの小説が発表されて、町のそこここに碑文が立てられ出版物も出回るようになった。「恩讐の彼方」は、そのひたむきさが敵討ちの心をほぐした人情話として評判になり、小学校の「国語読本」にも啓蒙教材として取り上げられた。

 しかし地元に伝わる禅海さんの後日談は生臭い。工事の資金集めに九州の諸大名に寄付を求め、通行ができるようになって「人四文、馬八文」の通行税の徴収を始めた。その上がりの一部は羅漢寺に寄付、身よりのない禅海さんは寺境内に墓地を購入、永代供養の契約もとりかわしていたという。どうやらこんな暮らしが敵討ち話を生んだらしい。

 頼山陽がめでた耶馬渓の風景はこの洞窟付近から始まる。空に突き出したような奇岩の峰は「競秀峰」と呼ばれる。その下、五つの洞門をくぐる約300メートルの道は小さな箱庭の点景だ。この洞門も時代の荒波をかぶってきた。
 明治の頃には旧陸軍日出台演習場への幹線道路になって軍が荒っぽく拡幅した。国道に指定されると、こんどは曲がりくねった道が一気に直線道路になった。ダイナマイトが手彫りの跡をふっとばした。戦後、わずかに残っていた轍の跡は鉄平石の敷石で消え、5段ほどの石段わきにはスロープと手摺がつけられた。洞門のかたわらの「県史跡」の碑がどこか空々しい。

 しかしいまは禅海さんの心情を知るよしもない。産業のないこの町ではやはり過疎化が進む。老人がなくなった空き家には仏壇だけがぽつんと残る。「町で借家にしようと思っても仏壇があるので貸せないんですね。若い人が仏を置いて出てしまったんですよ」と老舗旅館のお女将さん。羅漢寺の“門前町“もいまはこころ寂しい。


きくち・かん 1888−1948 香川県生まれ、京大在学中に「新思潮」同人に。35才で文芸春秋社を創設。「父帰る」など。


☆ メモ 羅漢寺で500羅漢を見た。どこかで見たような顔がならんでいた。耶馬渓は青葉のシーズン、奇岩と妙に調和していた。旅館『山国屋」は老舗の貫禄だった。