名作の舞台                                           □ 岐阜県・野麦峠 本文へジャンプ

あゝ野麦峠
山本茂実



 野麦峠は飛騨と信濃を結ぶ古くからの峠道である。明治のころ、何千、何万人ともいわれる製糸工女たちがこの峠を越えた。クマザサが生い茂った細い山道には、地蔵堂だけがいまもひっそり立っている。
  山本茂実の『あゝ野麦峠』は、この峠を越えた飛騨の糸引きたちの証言をもとに、明治の時代を写した「記録文学」である。野麦峠がにぎわったころ、日本は生糸を輸出、その外貨を軍艦に代えて富国強兵策を進めていた。それを支えたのがまだ幼顔の娘さんたちだった。口減らしのために出稼ぎに行く心細さ、過酷な労働と折檻に耐える工女たちの悲しみが心をうつ。
  初めて糸引きに出る子は「シンコ」と呼ばれた。小学校四年を終えたばかりの十一、二歳。雪が残る二月、赤い腰巻きにワラジばき、背中に風呂敷包みをせおって、製糸工場のある長野県の岡谷に向かった。乗鞍を望む北斜面の峠道は、堅い氷が刃をむく。飛騨に戻る十二月は四、五bもの雪で埋まる。吹雪の中をひもで体をつなぎ、念仏をとなえながら一列で歩く。雪と氷の峠を越える百数十`、文字通りの命がけの道程だった。
 標高1627bの北アルプスの峠は、いまも冬場は深い雪に沈む。おばあさんの実家が工女宿だった野麦区長の奥原音蔵さん(67)はいう。「想像以上に大変だったんだね。どの子の足も皮膚が破れて血がにじんでいた、そんな姿を見るのがつらくって、とばあさんがよく話していた。それに、地蔵さんの近くの谷に滑り落ちて死んだ娘さんも何人もいたんだって。ひどい時代だったんだ」
 野麦峠を越えた工女たちが働く場も過酷なものだった。親と会社の間で交わされた証文をたてに一日十六時間も働くことを強いられ、病死、自殺に追いやられた工女も少なくなかった。八ケ岳に初雪を見るころになると娘たちは元気になる。暮れの帰る日が近づいてきたからだ。
 明治四十二年十一月二十日、野麦峠の頂上でひとりの工女が息を引きとった。飛騨・角川出身の政井みね、二十二歳。「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報でかけつけた兄が担ぐ背板に乗せられ、工場の裏門から出た。病名は腹膜炎で重体。幾日も兄の背にうずくまって峠の茶屋にたどりついた。「アー飛騨が見える、飛騨が見える」とつぶやくように言ったきり、その場に力なく崩れた。「百円工女」といわれた模範工女の最期だった。
  峠の道は、県道が開通してハイカーが歩く歴史の道になった。頂上の「野麦峠の館」から、峠道を歩くと地蔵菩薩に出会う。ここを通った工女たちが、何度も手を合わせたお地蔵さんだ。かたわらの笹原からは飛騨の山々が重なってみえる。山峡に光る屋根は野麦の集落だ。お地蔵さんは、ふるさと飛騨との別れと再会の場でもあったのだろう。
 峠から高山を結ぶかつての街道は途切れ途切れに間道として残っていた。工女たちを送ってきた肉親たちと別れをつげた美女峠付近では、旧街道は県道に沿っていた。正月、帰郷した工女たちでにぎわった飛騨の古川。寺の玉垣に刻まれた製糸会社の社名がやっとのことで読めた。当時の盛業ぶりがうかがえる。「当時は工女集めの看板代わりだったんだって。そう、もう古い話だよね」地元の人が教えてくれた。

やまもと・しげみ 1917−1998 長野県松本市生まれ。早大で聴講生として学ぶ。若者向け雑誌「葦」を創刊、編集長を勤めながら庶民の歴史を描く。『喜作新道』『高山祭』など

☆ メモ 頂上の町の施設「お助け小屋」は、冬は雪に埋もれる。5−6bはあるという。アルプスからの雪と寒風は容赦ない。