名作の舞台                                            □ 山口県下関市 本文へジャンプ


宮本武蔵 巌流島の決闘
吉川英治






 

 巌流島は関門海峡に浮かんだ周り1キロもない小さな島だ。武蔵が佐々木小次郎を倒した古跡である。そんなことがなければ釣り人がのんびり糸をたれるただの無人島。秋晴れの日、この島に「小次郎」が渡し船で運ばれてきた。観光地に模様替えを急ぐ島のモニュメントとして造られた像だ。武蔵はまだデザイン中、遅れてやってくるのだという。「武蔵はここ、だから小次郎の目線はこのあたりかな」。小次郎の目線のずっと先には関門橋が延びていた。

巌流島での決闘は慶長17年(1612)4月13日とされる。一乗寺の決闘の後も諸国を遍歴する武蔵にとって気になるのは「燕返し」の武芸者・巌流 佐々木小次郎の存在。その相手との一騎打が−。しかしこの決闘は武蔵の自著には一行の記述もない。吉岡一門を倒して京を去った武蔵の消息は熊本での晩年までぷつりと途絶え、史実にも欠ける。小説に描かれた決闘の場面も武蔵の養子、伊織が刻ませた「小倉碑文」(小倉手向山)や伝記「二天記」などの二次史料からたどったものだった。

 一刻遅れてやってきた武蔵は、擢の木刀をひっさげ素足で浅瀬に降りたった。いらだつ小次郎は「故意に約束の刻を違えて敵の虚をつくのは汝のよく用いる兵法だ」となじり、長刀を抜き放ち、鞘を波間に投げ捨てた。すかさず武蔵は「小次郎っ。負けたり」「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ」と応じるのだった。

武蔵と小次郎の決闘は技と精神の闘いとして描かれる。物干竿を思わせる大太刀を大上段に構える小次郎。対する武蔵は相手のささいな心の動きも読みとって隙をつく。「小次郎が信じていたものは技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。ただそれだけの差でしかなかった」。その「差」を書くのに作者は四年をついやすことになる。

 「元より武蔵も無念。巌流も無想。闘いの場は、真空であった」「巌流は、頭上の長剣で大きく宙を斬った」「武蔵が額を締めていた柿色の手ぬぐいが二つに切れてぱらっと飛んだ」「ニコ、と。巌流の眼は、楽しんだかもしれなかった」「しかし、その瞬間に、巌流の頭骸は橇の木剣の下に、小砂利のように砕けていた」。
島の中ほど、生い茂った森の中に佐々木巌流の碑がうづもれていた。明治の頃に建てられた供養碑だという。小次郎は謎の多い剣客である。年齢不詳で、傲慢な敵役とされてきた。それが「吉川武蔵」では若い美剣士に変貌、野心に燃えた生臭い男として描かれた。 小次郎は小説の中で「彼奴は作州の郷士の小せがれ、取るにたりない人物だ」と門弟たちにいい、「あの剣は、天性というか、野獣の強さとでも云うか、無茶に道理が負けるたとえで、正法の剣が不覚を取る」と云わせる。『邪剣』だとののしる小次郎に作者の目は冷たい。

 ところが巌流島のある下関では負けた小次郎に人気がある。“平家びいき“の土地柄からだろうか、勝った武蔵は疎まれる。いつの頃からか決闘の島、船島も小次郎の流派名からとった「巌流島」とよばれるようになった。「武蔵は単なる果たし合いの通過者。島に渡って相手を倒し、そそくさと去っていっただけの男さ」と郷土史家は云う。

 吉川英治の「宮本武蔵」は巌流島の決闘で終わる。そして吉川はこんな独白で長編を閉じる。
 波騒は世の常である。 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水の深さを。

    
 みやもと・むさし 天正12年(1584)−正保2年(1645)、美作国吉野郡宮本(岡山県大原町)生まれという。号は二天。諸国を遍歴、二刀流を創始、剣豪として知られる。水墨画を描き、著作は二天一流の極意を伝える兵法書「五輪書」。