名作の舞台                                            □ 京都市・一乗寺 本文へジャンプ


宮本武蔵 下がり松の決闘
吉川英治




 行く先々で「宮本武蔵」と染め抜いたのぼり旗がはためいていた。来年から放映される大河ドラマ「武蔵」にあわせてゆかりの地は活気づく。それにしてもなぜ。宮本武蔵はふしぎな歴史上の人物である。生まれも育ちも定かでない。伝わる人物像の多くは史実とは云いがたい。生きざまはわずかに書き残した「五輪書」でやっとたどれる。吉川英治は、そんな武蔵を求道者のイメージに染めあげた。

 小説「宮本武蔵」は、昭和十年から十四年にかけて朝日新聞に連載された。それまでの武蔵は腕っぷしの強い暴れん坊、講談本での主役でしかなかった。吉川は、剣に心をそわせ、ひたすら己を磨く武芸者として武蔵を描いた。作者は関ヶ原の戦で敗走する武蔵の嘆きから書き出した。 「もう人間の個々の振舞いなどは、秋風の中の一片の木の葉でしかない」。しかし武蔵にとって頼れるのはやはり剣しかない。

 孤剣! たのむはただこの一腰。武蔵は、手をやった。
 「これに生きよう! これを魂とみて、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるかやってみよ う!」 青春、二十一、遅くはない。(「宮本武蔵」地の巻)

 諸国を旅した武蔵は、生涯で六十余度の勝負に挑んだ。二十一歳のとき京にのぼった武蔵は、名門吉岡道場の門をたたく。門弟との試合では六人を倒し、二人が死んだ。その後、当主の清十郎、弟の伝七郎が相次いで武蔵に挑むが、あえなく倒される。面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、又七郎(小説では源次郎)を名目人に立て、弓、鉄砲も携えた七十人余人のも門弟たちで遺恨試合にのぞむことになる。慶長九年の京都一乗寺下り松の決闘である。

 武蔵は約束の「一乗寺址下り松」には背後から山道を駆け下り、一気に幼い名目人を斬った。矢を刀ではねのけ、向けられた刀に斬り込んでいく。「彼の剣法には形も約束も極意もない。想像力と実行力が結びあって生まれた無名無形の剣なのだ」

 一乗寺の決闘は、武蔵の著述には一行もない。後年、弟子筋らが書いた伝記「二天記」には「京洛東北の地 一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されている。その決闘の地は洛北、修学院に近い一角だった。旧白川道の四つ角に「宮本 吉岡決闘之地」と刻まれた石碑と松の木が立つ。時たま、足を止める人がいても大方は無関心に通り過ぎる。

 小説では下り松にくだる途中、八代神社で神頼みを思い立ったことになる。しかし武蔵は、社殿の鰐口の緒に手をかけようとしてはっととめた。「さむらいの味方は他力ではない。死こそ常常の味方である。さむらいの道には、たのむ神などない」。神仏に頼ろうとした自分の弱さこそが問題だと思う。武蔵は後に、自戒の壁紙文「独行道」の一項に「仏神は尊し仏神をたのまず」と書き残した。

 神社の境内に松の古株が保存されていた。決闘を見下ろした「下り松」だという。かたわらの武蔵のブロンズ像はまだ新しい。ブームにさきがけ最近、建立された。「武蔵にとってここは転機の地、なにごとにも頼らず生きていく、悟りを拓いた処なんです」と竹内紀雄宮司。竹内さんはいつのまにか一乗寺の町おこしのリーダー役になっていた。

よしかわ・えいじ 明治25(1892)−昭和37(1962)年。横浜市生まれ。高等小学校中退後、職業を転々としながら文学修行。大正15年に「鳴門秘帖」で作家に。昭和35年に文化勲章受賞。「宮本武蔵」「太閤記」「私本太平記」など。