名作の舞台                                              □ 熊本県・天水 本文へジャンプ

草枕
夏目漱石



 「おい」と漱石の気分で声をかけると「はい」と返ってきた。町で聞いてきたので念のためにやってみたら茅葺きの茶屋からおばさんが笑いながら顔をだした。熊本の山間に「草枕」の峠の茶屋がそっくりに復元されていた。

 明治三十年の大晦日。五高(旧制)教授の漱石は、同僚の山川信次郎と熊本市内から鳥越峠と野出峠を越えてぶらりと小天温泉に出かけた。「山路を登りながら、こう考えた」。有名な「草枕」の書き出しだが、その時の体験をもとにしたのが小説「草枕」である。

 漱石たちが歩いた往還は、県道にそって谷あいから山道へと続いていた。峠の茶屋の手前でごろりと岩がむき出した急な坂。「こう考えた」という鎌研坂だという。凍てた道はさらに厳しい。そこは文学者。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と思う。私たちにはそんな余裕はない。ただひたすら足下をたしかめ、ヤブ蚊をはらいながら歩く。

 この作品で漱石は「非人情」を書いた。際だった筋があるわけではない。世間のわずらわしい人情から逃れようと画工が一人旅に出た。浮き世を嘆きながら山道をたどり、温泉場に出掛けた。宿の一人娘の「那美」さんとの不思議な出会い。かろうじて非人情を貫く画工。ゆれる印象を俳句にし、漢詩でつづる、時にはシェレーの詩を英文で思い起こして芸術論や人生観を披露する。
 正直なところ、しんどい。漱石自身も「天地開闢以来、類のないものです」(小宮豊隆への書簡)と自認する。

 二つの峠を越えた「小天」は有明湾に面した蜜柑の里だった。山の段段畑にみかん畑が広がり、海につきだした干拓地にビニ−ルハウスが光ってみえる。草枕の「那古井の里」はここだった。高台の植え込みに、漱石が泊まった六畳の一部屋が「漱石館」として残されていた。縁側の障子はあけ放されたままだが、じめっと暗い。干からびた池に、ツバキが花をおとした。

 漱石の頃は土地の名家、前田案山子の別邸だった。草枕の「那美さん」は案山子の長女の卓さんだとされる。硬派のイメージが強いこの小説の中で、那美さんの動きだけが鮮やか、作品に艶を添える。漱石が約1週間で一気に書き上げた背景に、那美さんへの思いがあったとされる。

 熊本で漱石が住んだ五番目の家「内坪井の家」が夏目漱石記念館として保存、公開されていた。木村隆之館長は、鏡子夫人の入水事件は前田卓さんに影響されたのでは、と思っている。「漱石先生が卓さんに思いが深かったのは確かです。地名の那古井にしても那美さん恋しと読めなくもない。那美さんが池に飛び込むふりをする鏡が池も鏡子夫人の入水と二重写しになりますね。草枕は、熊本が生んだ小説なんです」。

 非人情の世界に人情の世界がからむ。町のあちこちに「草枕と蜜柑の里」の看板やのぼり旗が目につく。「草枕」が意識されたのはつい最近のことだ。「漱石は知っていても草枕はなじみがない。『猫』や『坊っちゃん』のような具合にはいかなくて」と元町長で町で唯一の旅館を経営する前田信一さん。それでも、町にとってはせっかくの財産、ビデオで本でやさしく解説、外に向っても発信をはじめた。小さな町で、100余年ぶりに草枕が浮上してきた。

              

なつめ・そうせき 1867−1916 東京生まれ。「我が輩は猫である」「坊っちゃん」など。近代文学の巨峰とされる。


 メモ 天水への道は舗装道路だった。谷間を昔の石ころの道が走っていた。ところどころに車の轍が残っている。いまはみかん農家の農道として使われている。