名作の舞台                                               □ 兵庫県城崎町  本文へジャンプ


城の崎にて
志賀直哉


 
  谷あいにくの字にひらけた湯の町。川沿いの柳が芽吹き、木造の旅館街にぼんやりと灯がはいる。外湯を巡る浴客たちの下駄の音がなつかしい。山陰の城崎はゆっくりと遅い春を迎えていた。

 ここが「城の崎にて」の舞台になった。とりたててストーリーがあるわけではない。静養をつづける「自分」のひそやかな日常を飾り気なくつづった。文庫本にして八頁たらずの小編だが、芥川龍之介をうならせ、谷崎潤一郎は「文章読本」に「華を去り実に就く」名文として取り上げている。

 ある朝のこと、一疋の蜂が旅館玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。他の蜂が巣にはいった日暮、冷たい瓦に一つ残った死骸に、淋しさと静けさを感じる。散歩のおり、川でみた大鼠は、首に魚串を刺され川岸の人たちの石に追われて逃げ惑っていた。死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回る様子が妙に頭についた。
 そんなある日、驚かそうと投げた石が小川のイモリに当って死んだ。可愛そうと思うと同時に生き物の淋しさを一緒に感じている「自分」だった。

 大正二年、志賀は初めて城崎を訪れた。山手線の電車にはねられて重傷を負いその後養生のために三週間滞在した。温泉につかり、ぶらりと町を歩く。玉突き屋に寄り、義大夫も聴く。父との不仲が続き、生後間もない長女を亡くしたばかりの落ち込んだ心境、小さな生き物に自分を重ね合わせ、生と死を考える。

 「『城の崎にて』を書いたのはここにきて四年後なんです。それが昨日のことのように生き生きと表現されている。もちろん才能ということもあるんですが、それほど城崎が印象つよかったんですね」。志賀直哉の研究家、唐井清六神戸親和女子大教授はいう。

 町のはずれや山道にも直哉は足を伸ばした。「或る一つの葉だけがヒラヒラ同じリズムで動いている」と書いた桑の木は、町から二キロほどの山道にあった。枝を落とした弱々しい木は二代目だという。かたわらのせせらぎは、イモリに石をなげた所ですよ、と地元の人に教えられた。澄んだよどみに、川藻をくぐるハヤがいた。かっての峠道は日本海側に抜ける県道に変わっていた。

 川端は戦後もなんどか城崎に立ち寄っている。死んだ蜂をみた「三木屋」が定宿だった。町長もつとめた三木屋のご当主は代替り、文学碑建立で志賀邸に足を運んだ観光協会長も亡くなった。 画家の藤野つとむさん(66)は、この町では志賀直哉に会った数少ない一人になった。 町役場の観光課長時代に、観光ポスターのことで渋谷の自宅を訪れた。亡くなる一年前のことだ。「城崎は好き、あの作品も好き。文学碑は嫌いだが、城崎の碑だけは苦手の筆で懸命に書いたと話されていました」。

 各地の温泉地は、いま若者でにぎわう。城崎もこんな若者達が観光業を支える。「温泉だけでは客がよべない。なにか付加価値をつけなければ」とこの春、観光協会の呼び掛けで「城崎文学まつり」が開かれた。多くは中高年で、若者の姿はちらほらだった。「三木屋」で直哉の部屋を見せてもらった。庭が見える和風の部屋。「バス、トイレが無いんですか」と若者には人気がない。「ロマンを支えるというのはしんどいことですね」、十代目にあたる専務さんがぽつんといった。
                       

しが・なおや 1883−1949 宮城県石巻生まれ、東大在学中に「白樺」創刊同人に。父親との対立などを描いた私小説を書く。「暗夜行路」「小僧の神様」など。

☆ メモ 城崎の役場には「温泉課」があった。町中の外湯をめぐる町ぐるみで温泉を守ってきた。しかし内湯を抱え込んだ大資本のホテルが進出して町は揺れている