名作の舞台                                              □ 山口県長門市 本文へジャンプ


みすゞの童謡詩
金子みすゞ





 冬の日本海は白く大きくうねっていた。しかし内海に面した仙崎の海は静か、低い家並みが灰色の雲の下に沈んでみえた。金子みすゞはこんな静と動を感じながら詩の心をはぐくんできたのだろうか。

 山口県長門市仙崎。みすゞの子供の頃は魚の匂いがする港町、さらにその昔は、鯨の捕獲で活気づいた漁師の村だった。みすゞは幼い日に、おばちゃんから勇壮なクジラとりの話も聞かされた。やがて思い出は文字になり、優しさと厳しさがまじる童謡詩になった。

 若くして逝ったみすゞは、五百十二点の童謡を書き残していた。その多くは大正末から昭和にかけての六年間に書かれたものだった。どうしたことかこれらの童謡は公表されることがなかった。一編の詩に感動した児童文学者の矢崎節夫氏が時間をかけて掘り起こし、死後五十余年たってよみがえった。

 発掘のきっかけは、「日本童謡集」(岩波文庫)に掲載されていた「大漁」の詩だった。

朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰯の/大漁だ。
浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/
何万の/鰯のとむらいするだろう。

 仙崎を訪れた日、金子みすゞ顕彰会事務局長の草場睦弘さんに近くの青海島にある鯨墓に案内された。漁港を見下ろす高台の寺域に建った石碑。「みすゞさんの詩の原点は、この鯨墓だと思うんですよ」と草場さんはいう。鯨の解体の際にとりだした胎児を埋葬するのに元禄時代に建立されたという。クジラの胎児は七十体余り。一頭ずづに戒名がつけられ手厚く葬られ、いまも春には寺で「鯨法要」がいとなまれている。

 ここではごくあたりまえの行事だが、その心は深い。魚をとって生きることに感謝しながら、その一方では生きることを奪い取った鯨たちへのお詫びの気持ち。幼いみすゞにもそんな矛盾した思いがやきつけられたのだろうか。
 みすゞの詩には、見えないものにも心を寄せる詩が多い。読んでいるといつのまにか澄みきった世界に誘いこまれてしまう不思議さがある。「つもった雪」もそんな一つだ。

上の雪/さむかろな。/つめたい月がさしていて。
下の雪/重かろな。・何百人ものせていて。
中の雪/さみしかろな/空も地面もみえないで。

 二十歳になってみすゞは仙崎を離れた。母の再婚先でもある門司市内の本屋さんに住み込むことになる。港町のにぎわいをよそに好きな本を読み、西条八十らの児童文学雑誌に投稿する日々。こんなこころ豊かな暮らしも結婚で暗転する。夫に裏切られ、あげくは性病を移され、投稿仲間との文通も絶たされた。離婚して一人娘と生きていこうとした矢先に夫から娘の引き渡しを強要される。引き渡しの前夜、みすゞは下関の本屋の二階で自死していた。枕元に詩を清書した手帳と前日、写真館で撮った写真の引換証がおかれていた。

 みすゞは、人知れず仙崎にある遍照寺の無縁墓に眠っていた。「ミチの娘 金子テル」とだけ小さく刻まれた墓のありかは最近になってわかった。薄幸の娘を母親がひっそり埋葬したのだろう。墓と実家跡などがある仙崎駅前の通りはいまは「みすず通り」と名付けられ、墓前には生花がそなえられるようになった。「古い詩だが、今の若い人にも通じるものがあるんですね。だからわたしたちもこの心を伝えていきたい」。地元の人たちはそういうのだ。
(詩は「金子みすゞ全集」(JULA出版局)から)
                 

かねこ・みすず 本名・テル 明治36(1903)年−昭和5(1930)年。山口県長門市生まれ。20歳のときから児童誌に投稿、詩人の西条八十に才能を見出だされ童謡詩人会メンバーに。26歳で自殺。