名作の舞台                                             □ 島根県出雲市 本文へジャンプ


出雲の阿国
有吉佐和子




 出雲の阿国は歌舞伎の創始者として知られている。その華やかな舞台はきらびやかに伝えられているが、その生涯については謎に包まれたままだ。「あの時代に一介の女芸能者の記録は残っていないのが当たり前ですよ」。でも出雲では阿国はほそぼそと語り伝えられていた。

 戦前から戦後の一時期、出雲で阿国の伝承は途絶えた。出雲大社近くの芝居小屋「阿国座」は食糧配給所になって閉鎖され、歌舞伎役者らが戦前に建てた「阿国塔」の銅版レリ−フも軍需用にと取り外された。阿国はこの町ですっかり忘れられてきたが、昭和四十五年に「出雲の阿国」が出版されて再認識されることになる。

 阿国の生まれは出雲のほかに佐渡と京都説がある。有吉さんは阿国(小説ではお国)は、出雲の国、杵築中村(いまの大社町)の鍛冶屋の娘だとしてその一代記を書く。炎のように舞い、雪の中で死んでいく阿国は、やはり神々の地、出雲が似合っているようだ。

 「出雲の阿国」はお国の出雲からの旅立ちにはじまる。村娘らと上方で念仏踊りを披露する。京の四条河原に小屋掛けして踊るようになって、舞台が一段と華やかになった。しかし義妹お菊と阿国の夫、三九郎が結ばれ、やがてお菊が一座の人気をさらうようになる。

 「逆境」がお国の舞台を変えることになる。ある日、男装、歌舞伎者に扮してお国が舞台にたった。<お国は男振りにふりかえて必死で踊った。男になって踊る方が、足拍子が遥かに大きく踏める。お国は夢中になり、やがて酔った。客席の爆笑につぐ爆笑…>。400年前のこの舞台が歌舞伎の始まりとされた。

 断片的でしかない資料を史実とフイクションでつなぎ、虚像の阿国を実像に替えた。権力にいらだち、時流に流されまいとするお国。招かれて御所で踊ったお国はいう。「河原の客こそ、踊りの客よ。おかしければ笑うわ、楽しければ手を打つわ。疎んじてはなるまいぞ」。有吉は庶民芸能の持つ根源的な意味も問いかけた。

       
  『傾(かぶ)く』姿が評判になって「阿国歌舞伎」は人気を呼んだ。「うちは遊女歌舞伎じゃない」と流行にそっぽを向く阿国。おまけに笛の名手、名護屋山三が一座を去り、客足もにぶって出雲に帰る。奥出雲のたたら場で踊り、たたらの火を見て、雪にうずもれて死んだ。千七百枚にも及ぶ長編が一気に読める。

 「ただね、大社の人間が気に入らないのは阿国さんが斐伊川上流で岩の下敷きになって死んでしまう結末です。阿国さんはこの大社の庵でひっそり亡くなったんです」。地元の阿国研究家、福島裕子さんはいう。 「出雲阿国 終焉の地」の石碑も、小説の結末を意識して大社町に建てられた。

 大社から稲佐浜への道に阿国の旧跡がある。道路脇の石段をあがると「お国の墓」。二つに割れた花こう岩の自然石が阿国の墓だった。この墓を護る中村家はもともと出雲大社の御用鍛治。ご当主の名刺には「歌舞伎の始祖 出雲阿国後裔三十六代」とあった。阿国は8代目の三右衛門の娘だとされる。しかし江戸時代に大火で焼け、資料も遺品もない。中村家には後年、描かれた阿国立像図が一幅ある。下ぶくれ、切れ長の目、出雲の代表的な美人の顔だった。

 阿国が子どもの頃に遊んだと伝えられる奉納山にひとり登った。国譲り神話の舞台になった稲佐浜が見える中腹に「阿国塔」があった。男装で踊る阿国が銅版にきざまれていた。「ミュー」とウミネコの鳴き声を聞いた。素足でどんと床をける独特の舞姿はウミネコの群遊ぶ姿でなかったのだろうか、ふっと思った。



 ありよし・さわこ 1931ー1984、和歌山市生まれ。東京女子大在学中に「演劇界」の嘱託記者「地唄」で認められ文壇に。婦人公論の連載「出雲の阿国」は芸術選奨を受賞。

 ☆ メモ 大社町は縁結びの出雲大社の町。阿国を、売り出すのに地元は懸命だ。しかし町は意外と冷たい。「元気のいい阿国は大社の男たちには迷惑なんですかね」と女性。