名作の舞台                                              □ 埼玉県・羽生 本文へジャンプ
田舎教師
田山花袋


 
 「田舎教師」の舞台は埼玉県の羽生にあった。あの頃の風情がどこかに残っていますかと地元で尋ねたら「そうだね、利根川の夕暮れぐらいかな」とかえってきた。町を歩くと、いたるところで田舎教師のモニュメントや記念碑に出会う。明治時代の田舎教師は、いまも知人のように語られていた
 「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」。主人公の林清三が、実家のある行田から弥勒の高等小学校教員として赴任して行く情景から「田舎教師」は書き出された。青雲の志を抱きながらも貧しさゆえに進学することもできず、小学校教師として苦悩の日々を送り、失意のうちに二十歳の若さで寂しく死んでいく。若者が大志を抱いた明治の頃の話である。
 この物語には実在のモデルがいた。羽生の名刹、建福寺本堂に下宿していた青年教師の小林秀三である。花袋は義兄で詩人の太田玉茗が建福寺の住職になったのでこの寺を訪れようになる。そんな折、小林がのこした日記を知り、その日記をもとに青年教師の心の軌跡を忠実に描いてみせた。
 東武・羽生駅に降り立つとビルの向こうに本堂の屋根が見える。青年教師が住んだ建福寺は駅前にあった。けやき材で造られた旧本堂は、歴代住職が植えたイチョウの大木とともにそのまま残っていた。墓地の一角に「故小林秀三君の墓」もある。青年教師を慕った人達がつくったという。豪華な本堂や新墓石が目立つ境内で、旧本堂だけがしっとりと落ち着いてみえた。
 下宿人の青年教師と文人住職は、この本堂で酒を飲み、人生論や文学の話に花をさかせた。ある時、住職はこういった。「成功、不成功は人格の上に何の価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるのが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う」。なるほどと納得しながらも青年教師はいつかは東京に出て成功したいと思う。
 日記との出会いが名作を生んだが、羽生の自然もまた作品を飾った。「花袋は日露戦争に従軍、帰国して間もなくに「田舎教師」を発想するんですね。すさんだ戦場を見てきた後だけに、羽生の自然が一層、心にしみたんでしょう。田舎教師には自然や風物が書きこまれ、それがこの作品の魅力的なところなんです」。田山花袋研究家の宮内芳子さんは、卒論に「田舎教師」を選び、そのまま田舎教師研究を続けているという。
 青年教師が通った弥勒高等小学校は、利根川に近い弥勒野にあった。かやや葦が茂った湿地帯で、ぬかるんだ道がしばしば作品にも登場する。いまは東北自動車道がつっきる乾いた田園地帯だ。学校跡には文学碑と田舎教師の像が置かれていた。「絶望と悲哀と寂漠とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ 運命に従ふ者を勇者という」。碑文に刻まれたこの言葉は、日記にも小説のなかにもあった。しかし野心を捨て自分に戻ったとき田舎教師は病に冒されていた。
 「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれる。自然主義は人生をありのままに描くことに徹するという。だから人も風物も忠実に再現される。そうした真実がいまも心を打っのかもしれない。

 たやま・かたい 1871-1930 )群馬県館林生れ。六歳で父を失い私塾で漢学、英語を学ぶ。「蒲団」「田舎教師」(同42年)などで自然主義文学の旗手になる。

☆ メモ 駅前からいきなり墓石群がみえた。花袋の墓所もここにあった。利根川の川岸の堤防をあるきながら田舎を感じた。