名作の舞台                                              □ 兵庫県姫路市 本文へジャンプ


  播磨灘物語
  司馬遼太郎


姫路城がまだ小さな館で播磨の豪族の支城であった頃のことである。この城で黒田官兵衛孝高は生まれ、儒教精神と合理性を兼ね備えた戦国武将になった。いまも豪快に唄われる「黒田武士」のはじまりもこの官兵衛だとされる。司馬遼太郎の「播磨灘物語」は、戦国時代を才知でかけぬけた智将の物語である。

司馬さんが播磨を意識するようになったのは、ここが先祖の地だと知ってからだ。姫路の市街地から南に6`、瀬戸内の港に近い英賀は、戦国時代に一向宗を信仰する武士集団が住んだ小さな城下町。司馬さんの先祖もこの城にこもった英賀衆のひとりだった。しかしこの英賀城は信長に反旗をひるがえしたことで、秀吉、官兵衛の軍勢に攻め滅ばされてしまう。官兵衛は司馬さんにとって先祖の仇敵なのだが、なぜかこの「戦国末期の点景」に惹かれるものがあったという。

 室町末期の乱世。北近江を追われた黒田一族は備前福岡から播磨へと流浪してきた。姫路の神官の勧めで始めた家伝の目薬売りが当たって一躍、長者になる。財力を背景にした官兵衛の父、職隆はやがて播州御着の小寺家の家老に迎えられる。いかにも群雄割拠の戦国時代らしい出世物語である。司馬さんは史実にそって時代を描き、物語を展開する。目薬を奨めた広峰神社も大正の初めまで薬を売っていたと伝えられ、かって神符と一緒に薬を各地に配り歩いた御師たちの屋敷跡(写真)も姫路の広峰山に崩れそうになって残っていた。

 永禄十年、官兵衛は二十一歳で家督を継ぎ、小寺家の家老と姫路城の城主を兼ねる。天下を見回して、信長こそが天下を統一、時代を切り拓く男だとひそかに思う。秀吉の中国の毛利攻めにも肩入れ、自分の姫路城さえあっさり中国攻略の秀吉軍に提供してしまう。「地方大名の一家老に過ぎない分際でありながら、織田勢力を播州に引き入れ播州と天下の形勢を変えようとする大構想をたてた。そのあたりがこの男のおかしみである」。しかし主君の小寺家は毛利支持に傾き、板挟みに。あげくは織田方への復帰を説得するため単身で乗り込んだ伊丹城で、図られ土牢に幽閉される。


 司馬さんは小説の中でしばしば官兵衛を「おかしみのある男」といった。無謀にみえるが根は緻密、野心家でいながら欲がない、作者はこんな男の姿を人間くさく書いた。「播磨灘は司馬さんの価値観を具現化した作品、だからこそ身近かに読めるんです」と姫路文学館の玉田克宏さんもいう。

 この時期、小寺家の御着城は、東の織田か西の毛利につくべきかでおおきく揺れた。結果は毛利方に組みしたことで秀吉の軍勢に踏みつぶされるのだが−。その御着城は播州平野の播磨国分寺の近くにあった。城址を国道2号線が突っ切り本丸跡と二の丸跡を分けた。祠と風化した供養石がわずかに悲劇の城を印象づける。居館を模した市の出張所。「御着城、なんにもあらへん」と職員は素っ気ない。その高台からは姫路城がかすんで見えた。

 信長の死で秀吉の周辺は慌ただしい。毛利勢との講和、「中国大返し」と秀吉の決断は官兵衛の知恵だとされる。しかし官兵衛は酬われることはなかった。官兵衛の才知をおそれた秀吉も彼を遠ざけた。官兵衛は晩年、実子の黒田長政に頼んで筑前・福岡城の一角にひっそりと住んだ。そこから見る風景を「古郷に似ている」といい、遠い播磨をしのんだという。官兵衛は五十九歳で「黒田如水」として死んだ。


しば・りょうたろう 大正12(1923)−平成8(1996)年、大阪市生まれ。本名・福田定一。大阪外語大卒。新聞記者時代の昭和34年「梟の城」で直木賞受賞。「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「空海の風景」など。文化勲章受章者。 播磨は父親の出身地。