名作の舞台                                             □ 福島県いわき市 本文へジャンプ


洟をたらした神々
吉野せい




 おばあさんが書いた作品だというと、遠い昔の苦労話と思われがちだ。「百姓バッパ」のせいさんの作品も土の匂いがして、話も古い。しかし読んでいくうちに、ひきこまれ、心をうつ文学作品だと気付かされる。健在ならば、ことしで百歳。生まれ故郷のいわき市の文学館で、生誕百年記念展が開かれていた。

 「私は百姓女」という吉野せいさんは網元の子、娘時代に山村暮鳥らとの出会いで小説も書いた。しかし 詩人、三野混沌と結婚して開拓農民になり、荒れ野を切り拓いてやっと飢えをしのいできた。好きなペンも折った。詩人が死に、六人の子どもたちも成人して、七十歳を過ぎてからペンをとる。「思い出せる貧乏百姓のたちの生活の真実のみ」を評伝に、作品にした。

 デビュー作品となった「洟をたらした神」は暮らしのひとこまを字にした。ぼろの袖を鼻汁で光らせた数え年六つの少年が主人公。ヨーヨーを買うのに二銭をせがむ、母親にはそのお金はない。少年はこぶのある松の枝でヨーヨーをつくった。そして母親の前でちょっと得意げに動かして見せる。<それは軽快な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどりであった>と結ぶ。エッセイスト、串田孫一さんの目にとまり、この短編を含めた作品集が出版されることになる。

 「せいさんの作品の舞台も書いた場所もここだけですよ」と案内されたのは意外にも市街地に近い台地だった。菊竹山を背に、藪と雑木林を耕した広がりがせいさんの畑。その奥まったところに平屋があった。「小屋」は立て替えられて、四男の一家が住んでいたが、いまは空き家。夏草のツルがベランダに延び、枯れた野イバラが足にからみついてきた。

 それにしても七十歳になってなぜー。せいさんが再びペンを手にしたのは詩人、草野心平さんの「あんたは書かねばならない。あんたの筆で、あんたのものをな」とのひとことだった。しかしせいさんをつき動かしたのは、生後間もなく病死した次女梨花との心のうちでの“約束“ではなかったろうか、と草野心平記念文学館の若い学芸員、長谷川由美さんは思う。「亡くなった直後の昭和六年の古いノートに『梨花を思ふとき創作を思ふ、よりよき創作を以て梨花の成長としよう』と記しているんです。だからずっとせいさんは生活の真実をみつめ発酵させてきたんですね」。

 作品集にある「梨花」はたんたんと事実が書き込まれている。<どこへも出ずどこへも泊まらず、この山の上で生まれ育ち病み死んだお前は、低い軒を離れていちご畑の細道を、あまねき月光と黒い菊竹山の松風に送られてとぼとぼと菩提寺さして遠のいて行った。私は戸口にたってお前に詫びつづけながら身を凍らせて見送った>。硬質の文章が母親の悲しみを伝える。

 夏草が刈り倒されたかっての開墾地、生活を支えた梨の木も朽ち、根っこから掘り起こされていた。草むらに戻った畑地に、せいさんが丹精込めた跡はない。せいさんが亡くなって、串田孫一さんは追悼文を寄せた。「…もう波打つこともないその胸の上には草刈り鎌が置いてあった。それは魔物を退けるためより、死んでなおしんじつに在るための用意であったのかも知れない。間違いなく土に戻るための『百姓女』としてのたしなみのように思えた」。わたしもまた荒れ地に”しんじつ”をさがしてみようと思った。
  

 よしの・せい 1899-1977、福島県小名浜生まれ。検定で小学校教員に。結婚後は農業ひとすじ。70歳を過ぎてから執筆。昭和50年「洟をたらした神」で大宅賞、田村俊子賞。

☆ メモ 草野心平が住んだところは記念館からみえる。のどかな風景だ。ひきかえ吉野宅は山がせまる地区、はびこった根との戦いだったろうと思う。