名作の舞台                                              □ 青森県・八甲田 本文へジャンプ


八甲田死の彷徨
新田次郎




 明治35年(1902)一月二十三日、第八師団青森歩兵第五連隊の神成文吉大尉ら二百十人の将兵たちが厳冬の八甲田に挑んだ。折からの寒波、猛吹雪のなかで凍死者が相次いだ。死者百十九人、生存者は十一人、日本の山岳遭難史上、最悪の記録として残った。気象学者でもあった新田次郎氏は、この遭難を「人災」の面からとらえてドキュメントタッチの小説にした。

 八甲田雪中行軍は、日露戦争前夜、陸軍がひそかに進めた過酷な人体実験だった。厳冬期の耐寒訓練と山越えの兵員輸送ルートをどう確保するか。成功すれば幹部の功績、失敗すれば無謀な行為と非難される。「師団命令でなく、あくまでも師団参謀長としての希望である」とあいまいだが、厳粛な命令のもとに計画された。

「山々は一斉に鳴り出し、飛雪は眼を開けておられないほどの強さで吹きまくった。八甲田山系の真中に入ったがために風の方向は乱れて、突風性の風が吹きまくり、至るところで渦を巻いた」

 岩手や宮城県の若者が多い第五連隊には、八甲田の厳しさを知る地元出身者はいなかった。だから装備も軽登山の気分で整えられていた。しかしこの中隊にとって、もっと不幸なことは大隊長の山口少佐(小説では山田少佐)のとつぜんの随行だった。案内人を頼む行軍計画も、「いくさにいちいち案内人を頼めるか。磁石と地図があれば案内人は要らぬ」 大隊長の一喝で消えた。しかし自然の猛威の中でその磁石も役にたたなくなった。

「二十六日の朝が明けた。雪が激しく降っていた。生き残りの三十人は全身氷に覆われていた。人間の形をした氷の化け者が深雪のなかを泳いでいるようであった。絶望感のため倒れる者が多くなった。ひとりが倒れると将棋の駒のように次々と倒れていく」

 新田はこの小説で、人間の”弱さ”に眼を向けた。随行のはずの大隊長がいきなり指揮権を握り、無謀に進軍の指揮をとる。それに「待った」をかけられない。上官が指揮をとるのはごくあたりまえかもしれない。士族出身で占められる将校のなかで神成大尉(神田大尉)は数少ない平民出身だった。この「劣等意識」が神成中隊長の口を重くした。それが悲しい結末につながる。

 将兵たちを埋葬した幸畑墓苑は八甲田への登り口にあった。松林に囲われた芝生の墓地。正面、一段と大きい墓標は山田大隊長。その両脇に将校の墓標が並ぶ。兵士達の185の小さな墓石は大隊長に向かってきちんと立っていた。「死しても階級の差は厳然として示され、近づきがたいものを感じた」と作者はいう。そして評論家の山本健吉さんも「この遭難は明治の暗さを象徴した事件」だと書き残した。

 その暗さを払拭するように陸軍はこの事件でひとりの「英雄」をつくりあげた。神成中隊長の命をうけ山麓に遭難の一報を伝えた後藤房之助伍長。事故から四年後、遭難現場の馬立場に全身が凍り付き佇立する銅像がたった。ことしの八甲田の雪は重い。足をとられながらも高地にある銅像にやっとのことでたどりついた。見上げるほどのその巨大なモニュメントはスキーヤーの格好の道標になっていた。


にった・じろう 本名・藤原寛人。 明治45年(1912)〜昭和55年(1980)。長野県上諏訪生まれ。無線電信講習所卒。中央気象台、気象庁に勤務。傍らで書いた「強力伝」が第34回直木賞受賞。「孤高の人 」「栄光の岸壁」「武田信玄」など