名作の舞台                                              □ 宮城県仙台市 本文へジャンプ


藤野先生
魯迅



 秋の陽がやわらかくさし込む階段教室。中ほどにある長机の一角がいたんでみえる。およそ百年前、魯迅がいつも講義を聴いていた席だという。ここには中国からの訪客が多い。たいていは、三列目のこの席に坐る、机の傷もそのせいらしい。先年、仙台に来た江沢民主席もこの席でしばし思いをめぐらせた。

魯迅は明治三十七年(1904)九月に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に留学した。清国の建て直しを担って日本に派遣されたエリート留学生の一人だった。この仙台では、居心地のいい学生生活とはいえなかったようだ。そんななかで出会ったのが<掏摸と間違えられるほどの風采のあがらない>藤野巌九郎という解剖学の教授だった。小説「藤野先生」は、魯迅と古武士を思わせる先生との心の通いを軸にして一年半の仙台での暮らしを描いた。

 藤野先生はある日、魯迅にノートの提出を求める。2,3日後に返されたノートは「初めから終わりまで、すっかり朱筆で添削され、文法の誤りまでいちいち訂正してあった」。それが学年の講義が終わるまで続いた。
 しかしこの行為が日本人学生の疑惑を招くことになる。ある日、学生会幹事がノートをみたいと魯迅の下宿にやってきた。中国人がいい点をとったのは藤野先生が試験問題を漏洩したためではないかと疑ったのだ。疑いは晴れたが、魯迅の心は痛む。「中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である、点数が60点以上あるのはその人の人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない」と歯をくいしばるのである。

 さらに追いつめるような「事件」が起きる。階段教室で魯迅は日露戦争中に中国人のロシアのスパイが処刑される幻灯を見せられた。歓呼の声をあげる同級生、画面のなかでの処刑をみる中国人群衆の笑い顔が胸をえぐった。「もはや言うべき言葉がない」と書き留める。そして「およそ具弱な国民である限り体格がいくら立派でも、頑健でもせいぜい見せしめの材料と見物人になるだけだ。彼らの精神を改造することである。それに役立つには医学でなくて、文芸を挙げるべきだ」(駒田信二訳)と思うようになった。

 医学を断念、仙台を去る魯迅に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で『惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。「わたしの師の中で、彼はもっともわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。大にして言えば、学術のためであった」(同)

魯迅は日本で夏目漱石と森鴎外の作品に親しんだ。この作品も漱石が英国留学中の家庭教師の思い出を書いた「クレイグ先生」に相通じるところがある。異文化の中でとまどい、立ち上がっていく姿は国が異なっても変わることはない。魯迅にとって「藤野先生」は青春時代のモニュメントだった。

 よそよそしかった仙台市も日中友好ブームの中で魯迅を再評価、1960年には青葉城の下屋敷跡に「魯迅の碑」を建立した。碑文には「仙台は転機をもたらした土地である」と刻まれていた。その碑の前に「逝世65周年 中国留学生学友会」の札がついた白百合の花束がおかれていた。


 
ろじん 本名 周樹人。1881ー1936。中国の文学者。反動的な軍閥政治が続く中で「阿Q正伝」「狂人日記」などを発表。封建主義や権威主義を鋭くつき、中国の近代文学を切り開いた。