名作の舞台                                              □ 高知県宿毛町 本文へジャンプ

婉という女
大原富枝


               

 風がわたる稲田の水路で水車がギーと音をたてた。大きな枡が水をすくってまた水路に戻す。「ただのモニュメントですよ」と地元の人はさりげない。しかし用水路を造った兼山は、この宿毛ではごくあたりまえに「先生」と呼ばれていた。

 土佐藩の奉行、野中兼山は寛文三年(1663年)に失脚する。家は取り潰され、妻子ら一族は宿毛の地に配流された。兼山にとりたてて落ち度があったわけではない。治水、用水路開発、港の整備と次々と手掛ける大事業に、領民がネをあげ、政敵が足をひっぱった。
 野中一族の幽閉は四十年にも及び、男系が死に絶えて赦免される。四歳で幽閉された四女、婉の青春も荒波にのみこまれてしまった。

 土佐で生れた大原富枝さんは、この史実を長年あたためてきた。少女のころ、父に教えられた。「お婉さま産湯の井戸」で婉を知った。ひたむきに生きたと伝えられる婉にひかれるが、謀反人の子の記録はない。戦時中、婉の自筆の手紙に出会い、戦後になってやっと筆をとった。

 子女八人が宿毛に配流されるのは寛文四年三月三日、雛の節句だった。「四カ月の弟は母に抱かれ、わたしは乳母に手をひかれて迎えの籠にのった。幼いわたしは愉しい晴れの日のように嬉嬉として…」。四十年に及んだ幽閉生活の幕開けだった。

 送られた宿毛は、いまでもJR特急で高知駅から二時間、さいはての地。幽閉地は町はずれ、三方が山に囲われた山あいにあった。婉たちは、竹矢来のすき間からみえる野火を見、遠くに里人の影を追った。強さから身を滅ぼした父に政治の非情さを知る。それを語った兄たちも獄中で死んた。
 「生きる」ことを知らずにただ「置かれた」だけの日々。大原さんは療養に明け暮れた自分の青春に婉の生きざまを重ね合わせた。

 ところが、この幽閉された場所が、最近になって、市街地の宿毛小学校と分かった。宿毛歴史館の橋田庫欣さんはいう。「宿茂絵図に明記されているんです。文芸作品はそれでいいんです。でも事実は事実として伝えたい」。重罪人、兼山はここでは昭和初年まで語られることはなかった。 簡単な事実さえも途絶えていたのである。
 「婉という女」は昭和三十五年二月号の「群像」で発表された。大原さんが婉の手紙を見てから十六年経っていた。やっと実像がなぞられた。

 赦免されて戻ってきた高知で、「一度だけ生きてみたい」と心を燃やす婉。儒官谷秦山への恋心も、世間の壁と政治に阻まれる。漢方医として生計をたてる婉だが、藩士の脈だけはとることはなかった。「生きる」ことの意味をふっと思う。

 六十六歳、孤り死んだ婉の墓は、高知市内の小高い山にある野中家の墓所にあった。
兼山の墓碑を中央に、やや小さい墓石が二つ。ひとつが婉。もう一つの墓石の苔を拭うと「孤哀女婉泣植焉」と読めた。「婉がたてた生母の墓です。泣きながら立てると刻ませた婉の気持ちが痛いんです。野中家が自分で絶えてしまうと思うとたまらなかったんですね」と郷土史家の広谷喜十郎さん。

 帰途に寄った土佐山田の「お婉堂」。野中家の死者たちの家にと婉が残した。古びたお堂がりんとして見えた。

おおはら・とみえ 1914年、高知県生まれ。高知女子師範在学中に喀血、療養生活を経て作家に。昭和32年「という女」で野間文芸賞。「於雪」など。


☆ メモ 9月の土佐はうだる暑さでした。そんな中をお墓巡りの旅でした。宿毛湾の夕日、中村ではとんぼがとんでいました。