名作の舞台                                              □ 愛媛県松山市 本文へジャンプ


坊っちゃん
夏目漱石








「坊っちゃん」を話題にしたら、その友人はとたんに饒舌になった。「ヤマ場があってテンポがいい」「ともかくも面白くって」。しかし実際には警句をこめたシリアスな小説としても読めるよ、と異論をはさむと一瞬、しらけた。坊ちゃんは、やはり「ユーモア小説」として読むのがまっとうなんだろうか。

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」おれ(俺)は校長の紹介で四国の中学校の数学教師として赴任する。さっそく下女の清に手紙を書いた。「きのう着いた。つまらん所だ。今日学校に行ってみんなにあだ名をつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。いまにいろいろなことをかいてやる」。

 漱石は二十九歳で愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師になった。卒業後に勤めた東京高師の校風になじめず、そのうえ健康への自信を失い、悩んだ末の転任だった。しかし松山での生活にもなじめない。「当地の人間、随分小理屈を言う処のよし」と子規にもこぼしている。

 「坊っちゃん」はその10年後に書かれたのだが、温泉や方言はとり入れられてはいるが「松山」の影は薄い。「松山とは特定されてないが松山を書かれたことには違いがない。それにしても松山や松山人にはきびしいですね。発表当時にはモデルとされた先生たちも激昂したといいます。しかし有名になってくると、笑い話になってしまったようです」。松山坊っちゃん会の会長、頼本冨夫さんはそういって笑った。

「そりゃ、イナゴぞなもし」「篦棒め イナゴもバッタも同じもんだ」 宿直の夜の「バッタ事件」をめぐって、坊っちゃんは威勢がいい。「いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよくできる。いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性ー」。のんびりした伊予弁にからんで江戸弁による正論がさえる。

 漱石が教えた松山中学(現松山東高)は、子規や安倍能成らを生んだ伝統校。校内には旧藩校の建物が残り、同窓会館には漱石の写真や「欠勤届」が保存されていた。目線を落とした憂い顔の写真、きちっとした筆跡、きびしい漱石先生の素顔が浮かんでは消えた。

 教師の心得を説き、裏で芸者遊びにうつつをぬかす教頭の赤シャツ。「あんな妖物をあのままにしておくと、日本のためにならない」と山嵐と手を組んで妖物退治にのりだした。置屋から出てきた赤シャツと野だ。「袂の玉子を、野だの面へたたきつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れ出した」。そして「おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。直行で新橋へ着いたときは、ようやく娑婆に出たような気がした」。漱石もわずか一年で松山を去った。

 坊っちゃんらが去り、敗れた赤シャツ一派は学校残った。“勧善懲悪“に傾く漱石にしては意外な結末だが、後に漱石はそんな事情を友人に書き送っている。「僕は教育者として適任と見なされる狸や赤シャツよりも不適任なる山嵐や坊っちゃんを愛し候。坊っちゃんという人物は単純過ぎて、経験が乏しすぎて、現今のような雑な社会に円満に生存しにくい人だ、と読者が感じて合点しさえすればー」

 赤手拭をさげた坊っちゃんが通った道後温泉の建物は当時のまま。「マッチ箱のような」陸蒸気(写真)も復元されて温泉を始発駅に町を走る。坊っちゃんの時代は地元の人たちに押されるようにして残っていた。
   

なつめ・そうせき 本名金之助。慶応3年(1867)−大正5年(1916)。東京生まれ、東大英文科卒。「吾輩は猫である」で文名を得て「坊っちゃん」「草枕」を発表。他に「虞美人草」「心」「門」など。