名作の舞台                                               □ 鳥取県大山 本文へジャンプ


暗夜行路
志賀直哉





 大山は伯耆富士ともよばれている。標高1709bは中国地方きっての高い山だ。どこからでも望める大山は古くから神が宿る山といわれてきた。「暗夜行路」では、この神秘の山で悩み多い主人公が新たな生き方に目覚めるのである。

 暗夜行路は、志賀直哉の唯一の長編小説だ。大正十年に、雑誌・「改造」に前編を発表してから十六年たった昭和十二年にやっと奈良の自宅で書き上げた。この作家らしく、実体験や旅先での風景もさりげなくおりこみ、自伝を思わせる作品となった。「暗夜行路は外的な事件の発展よりも事件によって主人公の気持が動く、その気持のなかの発展を書いた」(「創作余談」)。一人称で語られる主人公の心の動きは作者自身の心の動きでもある。

 主人公の時任謙作は、祖父の妾だった女性と分家住まいをしながら気ままに暮らす作家志望。旅先の尾道で自分が祖父と母との間に生まれた不義の子であることを知らされ衝撃をうける。その重い心は京都で見初めた直子との結婚で和らぐのだが、留守中にその直子が幼なじみの従兄弟と過ちを犯したことがわかってまた悩む。許すべきであるのに許しえないことへの葛藤。謙作は山陰の旅に出る。

 大正三年のひと夏、志賀は大山で過ごした。その思い出が「暗夜行路」のヤマ場として描かれる。小説にも実名で登場、志賀が滞在した宿坊「蓮浄院」は、いまも森の中にたっていた。住職も居ない茅葺きの僧房は傾き、つっかい棒でやっと支えられていた。荒れ果てた宿坊は町で買収、文学館に改装する計画があるとか。その蓮浄院の裏手に登山口があった。謙作たちが登った大山への登山道である。

 静養をつづける謙作はある夜、提灯をかざした案内人の先導でこの道を頂上をめざした。昼飯の鯛のせいかひどく腹が痛む。途中で列から離れ、山を背にした草むらに腰をおろしてひとり夜明けを待った。そこはブナ林がとぎれ、低い樹林帯に変わるいまの六合目あたりだろうか。ふもとから歩いて3時間ほどの距離だった。


 <疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感じられた。彼は自分の精神も肉体も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のやうな眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、ー言葉に表現できない程の快さであった>


 謙作を包みこんだ大山は比叡山につぐ天台宗の霊場でもある。この山で、謙作は自然の中で息づく小さな虫にも目を凝らし、空で舞うとびの姿に人間の考えた飛行機の醜さを思う。そして自然の前での人間の無力さを知り、「溶けて行く」自分を感じるのだった。「この大山はずっと人を閉じてきたのです。年に一度、行者が祭事のために登るだけでした。志賀さんたちは一般登山の先駆けだったのです。よけい神秘性が感じられたんでしょうね」。大山寺住職の大館禅雄さんは言う。

 山で朝を迎えた謙作はやっとの思いで宿坊に帰りついた。重症の大腸カタル。翌朝、電報で知った直子が京都からかけつけた。謙作は生死をこえた「陶酔感」に身をひたして直子をみつめる。「見たことのない、柔らかな、そして愛情のある眼差し」と直子には思えた。 翌朝、峰をおおっていた霧がはれ、緑の稜線に橙色の光がさすのをみた。


しが・なおや 1883年( 明治16) 〜1971年( 昭和46)。宮城県石巻市生れ。学習院高等科を経て東大文学部中退。有島武郎、武者小路実篤らと同人誌「白樺」を創刊、作家活動に。昭和24年に文化勲章受章。「小僧の神様」「和解」・「清兵衛と瓢箪」など。