名作の舞台                                               香川県小豆島 本文へジャンプ

二十四の瞳
壺井栄



  
 岬の分校はひっそり静まっていた。薄暗い教室にはオルガンが一台、小さな二人掛けの木の机が六つ。「呼ばれたら大きな声で返事するんですよ。岡田磯吉くん」。売店で見た映画のせいだろうか、大石先生のはずんだ声がよみがえってきた。

 「二十四の瞳」のモデルとされる岬の分教場は小豆島の南端、深い入江に突き出た田浦岬の突端にあった。
 「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた」。
 こんな書きだしで始まる小説「二十四の瞳」は、戦前から戦後にかけての"おなご"先生と十二人の教え子の心のふれあいを描き、貧しい暮しや戦争の悲惨さが書かれている。

 嵐が去った浜辺で落とし穴に落ち、アキレス腱を切って自宅で療養する大石先生。子供たちは親には内緒で、先生の家がある一本松まで会いに行く。泣きべそをかきながら歩く一年生たち。「先生の顔みにきたん。遠かったあ」。笑っている先生の頬を、とめどなく涙が伝わっていた。

 詩情ゆたかなこんな場面も暗転する。貧しさゆえに女の子は奉公に、男の子たちは兵隊にとられる。大石先生もまた、夫の戦死、娘の死と荒っぽい時代の波に翻ろうされることになる。

 壺井栄は岬から五キロほど離れた港町・坂手の樽職人の五女、十人の兄弟姉妹と、両親がひきとった二人の孤児の中で育った。小説はこの十二人を分教場の子供たちに置き換え、妹シンが代用教員をしていた岬の学校が舞台になった。 昭和二十六年、家庭雑誌に連載、新書版でヒット、木下恵介監督、高峰秀子主演の映画化で知られるようになった。

 戦後、田浦分教場は「苗羽小学校田浦分校」に変わった。小さな教室が三つだけの分校は六十人の子供たちで活気があった。池田嘉代子さん(78)は、戦後すぐの九年間、夫婦でこの分校で教えた。教育の画一化が進む中で、岬の学校は自前のカリキュラムで授業、地域の人達との交わりが続いた。分校での生活は「二十四の瞳」そのままだったという。

 田浦分校も四十六年、廃校になって明治生れの木造校舎だけは残った。島の名所をめぐる観光バスはいまは素通りして、町はずれの町営「二十四の瞳映画村」に急ぐ。映画ロケ用に分教場そっくりに建てられたセットに人気がある。本ものの分校を訪れる人はまばらだ。
 「分校にはぬくもりがあります。教育の原点を見たようです 兵庫・大学生」。教室に置かれたノートに、感想が書き留められていた

 戦後、岬の分校に復職した大石先生のために教え子たちが歓迎会を開くところで小説は終わる。出席したのは戦傷で失明した岡田磯吉ら五人。五人いた男の子のうち三人は戦死、女の子も一人は亡くなり、一人の消息はわからない。戦争をはさんだ二十年、二十四の瞳は十の瞳になってしまった。
 「栄さんが本当に書きたかったのは戦争は嫌、いつまでも平和であって欲しいということだったんです」と池田さんはいう。

 岬を歩くと「軍人墓」に出会う。島出身の戦没者の墓石が目につく。 激戦になって、村の人達は、毎日のように分教場の校庭で出征兵士を見送った。子沢山の家庭からは一家で二人、三人の戦死者がでた。

 壺井栄文学碑は岬が見える坂手の丘陵にあった。戦死した七十二人の坂手の若者たちの墓銘碑が向き合うように立っていた。オリーブの木陰でなにかを話あっているようにもみえる。


つぼい・さかえ 1899−1967 香川県小豆島生れ。佐多稲子のすすめで執筆。「二十四の瞳」は昭和27年に、芸術選奨文部大臣賞受賞。夫は詩人壷井繁治。

☆ メモ 岬の小学生は6人、バスの運転本数も減って、いまはタクシーで本校に通う。ここでも過疎が進んでいた。お遍路の接待処が目立つ。