くもりのち晴

  泣き虫記者の取材控   

               
     


会社の先輩から声がかかった。かっての新聞社の記録を残すので集まれというのである。あわてて押入をさがして、やっと、かけだしの頃の2冊のスクラップブックを見つけだした。交通事故の20行ほどのべた記事に、あの日のことが鮮明に蘇ってきた。桜の社旗をひるがえした車で取材に走り回った20代の日々。そんな姿を先輩記者が「パッカードに乗った森の石松」と書いた。
事件・事故などの年表をくりながら,あの頃その時をたどってみることにしました。思い出すままに逐次、書いてみます。
☆ 昭和の終わった日(1989.1)

 天皇の病状が重くなって毎夜 枕元に電話とポケットベルを置くようになった。元皇室担当記者ということで天皇の発病と同時にXデー紙面チームに組み込まれた。「突発」にそなえて書き置いた予定原稿の手直しが続いた。一段落したところで、こんどは昭和を回顧、新時代への思いを託した連載の準備を、と注文がついた。日比谷公園が望める分室の一隅に密かに取材班を旗揚げ、スタートの日程がきまらないままに連載の準備は進んだ。

1989年1月7日 朝4時頃だったろうか 電話とポケベルがなった。「いま侍医が自宅をでた。臨終らしいです」。日比谷に向かう電車の中で天皇の死亡を知った。日比谷の朝は静かだった。官庁ビルにははやばや半旗がたれている。「やっとですね」とひとこと交わして受話器をとった。その3日後に義父が死んだ。泊まりあけの朝 ポケベルがなった。家内からだった。「父が危篤なので実家に行きます。喪服は持って出ます」。

 義父は明治生まれの会津の人。がんこだが暖かみのある人だった。ちょっとヤクザなわたしの仕事にも理解をしめしてくれた。「天皇が死んですぐ後に亡くなるなんて あのおじいちゃんらしいなあ」とふっと思う。棺のなかにあの日の朝刊をそっと添えてみた。

共通一次入試(1979.1.13)

 受験生なみに緊張してその日を迎えた。朝からの雪、全国230の会場で32万人が一斉に受験する。この朝、駒場の東京教育大の旧校舎を改装した大学入試センターではじめての共通一次試験の開始を待った。
 開始時間の「正午」は、夕刊早版ぎりぎりの時間。「予定通り一斉に始まりました」の一報。続いて「訂正します。東大本郷が20分遅れです」と二報。雪の北海道、東北ではじまってお膝元の東京で遅れ。それでも夕刊では「全国で一斉に」という見出しは避けられた。
  センターからの号砲で、全国で32万人もの受験生が一斉に試験問題にとりくむ。準備は周到だったとはいえ、正直不気味に思えた。開始の遅れや出題のみすに内心ほっとする。 これに賭けてきた田保橋管理部長は目をうるませ、加藤陸奥男所長は部屋で一句をひねっていた。
 71年に国立大学協会が共通入試特別委を設置してから、ずっと取材をしてきたおつきあいしてきた。進適、能研テストと2度の失敗に、共通入試には不信感をもってきた。それでも、準備状況とその対応ぶりに、運用次第では改善になりうると思うようになっていた。

忠生中事件(1983.2.15)

 
教師が生徒をナイフで切りつけた「忠生中事件」の一報は立川支局で受けた。
町田通信部の記者から「馬鹿な先生がいてね、生徒を怪我させたんだ。怪我はたいしたことないが現場に行ってみます」と連絡してきた。生徒が切りつけたわけではない、支局に居合わせた2人の記者を町田に走らせた。
 朝刊各紙は、とんでもない教師の事件と報じた。教師の身辺取材をした本紙とA紙には、その教師が被爆者であることが書かれていた。翌夕刊の各紙は、原爆症の気の毒な教師をいじめた悪い中学生とトーンが変わって、「最近の中学生はー」と識者のコメントがのった。大ニュースになってしまった。
 テレビは、荒れる学校、突っ張る生徒をクローズアップした。
やる気のない教師たち、東京一とされるマンモス校、学校や行政の不手際は見過ごされ、荒れるた子供たちに焦点が絞られてしまった。
 内心、腹を立てるが、紙面は日々の現象面の報道に追われることになってしまった。この段階では、地元の教育委員会も文部省もひっそり,息をひそめるようにして、取材からも逃げた。だから根本的な問題には手をつけず、力で封じ込めて表向きは「いい学校」にしたてあげた。


天皇会見(1976.8.7)

 在位五十年の昭和51年8月、天皇と宮内庁記者との記者会見が那須ご用邸で行われた。天皇を扇型に囲んで、幹事社がまず質問する形式。この年は幹事社として代表質問する破目になった。
 那須での植物研究の成果を聞いた後、かねて打ち合わせ通りに、「陛下、在位50年の機会に践そ(センソ)の思い出を」と質問した。天皇の顔がこわばり、しばし沈黙。「戦争のことはまだ生存しているものもいるのでそのことは」。誠実に答えがかえってきた。センソと戦争を取り違えらたのだ。            
                      

 実は「戦争」のことは、記者会見ではずっとタブーとされてきた。だから突然の質問にとまどわれたのだろう。
践そ(即位)と戦争を聞き違えられたのだが、天皇にとって、この50年の最大関心事はやはり戦争だったのだ,と改めて知ることになった。

 翌日、宇佐見長官に呼びつけられた。
「君たち、ルール違反じゃないか、これからは会見はやれないね」「践そは君たちはおめでたいことだ思っているようだが、陛下にとっては父君を亡くした悲しい出来事。そんなことを聞く方が非常識だよ」。

昭和天皇の大葬の日、新宮殿前で出棺を取材した。ふっとあのときの昭和天皇の顔を思い出した。陛下、ごめんなさい。しかし表向きだれからも心の内を聞かれることのなかった天皇は、質問される記者会見がこわくもあり、楽しみにしていたと後で聞いた。(写真は会見する昭和天皇ご夫妻)

☆第10雄洋丸を撃て(1974.11.28)

 野島沖合を火を噴き漂流する大型タンカーの撃沈作戦につきあった。
近海で実弾を発射の演習ができる、防衛庁はこの作戦ににんまりしていた。海上幕僚長を指揮官に4隻の護衛艦、潜水艦,対潜哨戒機の連合艦隊を出動、防衛庁担当記者も同船させた。
 沖合はるか、5インチの艦砲が火ぶたをきった。集中砲火にもびくともしない。館山からP2J機が飛来、ロケット弾を発射した。この命中率が5割、これにも動じない。幕僚長の顔が次第にこわばってきた。2日の予定が3日に延びた。

 呉から出動した潜水艦が魚雷を発射した。それがひょろひょろ弾、それた魚雷をヘリが捜索する騒ぎにもなった。歯向かってこない敵に手こずった。
 3日目の夜、タンカーは自沈した。沈み始めた船に喇叭手が葬送の譜を奏でた。私たちもあわてて写真を撮った。
 日本海軍の実力をみせつけられて、「不戦の誓い」を新たにしたのは言うまでもない。 (写真は自沈する漂流タンカー)

        
小笠原島返還(1968.6.26)

 先行の記者を追って、返還式前日に父島に。入国制限が厳しく、ビザの発券は一社2人。都がチャーターした200トンほどの船に2昼夜ゆられてやっとついた。
 泊まった民家は夫婦喧嘩の真っ最中。「米兵と分かれなければ刺してやる」と包丁を手にして闇に消えていったご主人。疲れた体、おかまいなしに仮眠をとった。
日本返還の午前0時、ふたりで走った。警察、役場、学校開きしてドルと円の交換も始まった。道路標識が変わって反対車線を走る車も出る。てんやわんやの取材に時を忘れた。

 ほっとして港に行ってみると、引き揚げる米兵の帰還船を仲良く見送る二人がいた。「よかったね」と声をかけると二人はにっこり笑った。あれ夢だったのかと疑った。

 この取材、2日間が海外出張で3日間は都内出張だった。手元のパスポートは「入国印」はなかった。
 (写真は島民集会に出席した美濃部知事)    


 ☆
学校群入試の導入(1966.7)

 警視庁担当ではほとんど夜回りしなかったのが都庁担当になって連夜の夜回りとなった。都立高入試に「学校群制度」を導入すると決まって取材競争は熾烈になった。
 委員会を終わるのを待って教委幹部、委員会委員宅を巡る。「有名校だけの群ができる」「いや6学区は隣接校どうしで群をつくるらしい」。委員の片言を社に持ち帰り地図を広げて学校群私案を作る。
 朝刊各紙には各社各様の私案が載っていた。しかしその日の委員会ではすべて白紙。「みなさん先走らないで」と小尾教育長。このワンマン教育長の判断でぐらりと方針が変わった。
学校群の導入で、都立高校人気にかげりがでた。 私たちは森を見ないで木ばかりみる取材をしてきたという反省は残る。

相次ぐ飛行機事故(1996.2.4)

 授業料値上げをめぐる早稲田の学園紛争のさなか。硬直状態だったがこの日、初の大衆団交があった。これで朝刊はつなげそうと社に戻った。
社会部周辺は飛行機が落ちたらしいが確認がとれない、といらだっていた。「米軍機じゃないの、こちらは社会面のアタマだ」と書き始めた。
 間もなく全日空機の東京湾墜落が分かった。近くの通船会社にかけこみ、船をチャーターした。この船が川下りの底の浅い船だったから、夜の東京湾で巡視艇などの大波をうけて二重遭難するところだったと後で聞いた。
書き上げた早稲田の原稿は締切の早い早版では写真付き4段、事故の原稿があふれはじめて3段、2段と片隅に追いやられて最終版は1段で8行。 私も死亡した133人の乗客関係の取材原稿のリライトに殺気立っていた。

 1ヶ月後の3月4日には羽田でカナダ航空機が激突炎上、64人死亡した。そして翌5日にはBOAC機が富士山で空中分解した。
BOAC機事故の一報は、警視庁の記者クラブ(7社会)にいてうけた。社会部との直通電話に「富士山で旅客機が落ちたらしい」とふきこんだ。「こっちはみんな疲れているんだ、冗談だろう」と気のない返事。ちょっと間をおいて「なに本物。人がいない」と悲痛な声だった。
 その日もまた早稲田の紛争取材でバリケードのなかで学生たちと話していた。

東京オリンピック(1964.10.10)

         

 開会式の行われた国立競技場周辺の事故・事件の警戒がその日の私の担当。各社のサツマワリと競技場のそばに張られた警察テントの周辺でごろごろ過ごす。
スタンドの歓声、すぐ近く、自衛隊の祝砲の轟音が響く。場内の華やかさをテレビで見る。 
夕刊が終わって幕の内弁当をつついているところに「杉並で通り魔事件発生」。どうせボツだよと言いながらもわれらサツマワリは事件現場に向かった。
 そのころ歌った「王将」の替え歌。「吹けば飛ぶよな 新聞がみに 賭けた命を笑わば笑え お江戸新宿どばしのサツ(淀橋署)でー」

吉展ちゃん事件(1965.7.15)

 夕方、犯人逮捕らしい、という情報で社会部は緊張。
ラジオカーで吉展ちゃん宅に、「まだそんな話は聞いていません」と父親。無線の状況悪く、いったん車を移動、やっと聞こえた本社からの指示は「下谷のお寺に行け」。走るパトカーにぴったりついた。
 鑑識の昭明を頼りに高い寺の塀をはしごをかりて読売記者と2人で墓地にとびこんだ。ところが墓地はもぬけの殻、おまけにぼちのとびらにカギがかけられていて文字通りの袋の鼠。
 後で分かったのだが警察が隣の墓地と間違ったとのこと。
 間抜けな記者は、墓石越しにかいまみた刑事たちの動きは、本社に連絡できずに、むなしく墓地で朝を迎えた。



番外

 ☆走った13000人の舞台裏   

 ともかくも現役時代は、書かせて欲しいとわがままを通しました。デスクや支局の責任者をしぶしぶ引き受けた頃も 暇をみつけてはペンをとっていました。しかしそんな一時期、新聞記者だけではできない体験をすることになりました。華やかな舞台の裏側に関わることになったのです。

 1995年秋 羽田と横浜を結ぶ首都高速の湾岸道路が完成 開通前にこの高速道路を走るマラソンを仕掛けることになりました。とはいっても肝心の運営やお金の話は 北京マラソンや名古屋女子マラソンを手がける本社事業局。地元の支局として裏方をやることになったのです。なに それくらいなら県や市の幹部に声をかければ、ことは進む、あとは当日の取材かな とタカをくくったのが大間違いでした。

 川崎市浮島にある市の港湾施設を、スタート地点として借りられることになりました。岸壁の荷揚げ場は当日 2000台分の駐車場として利用できることになって一安心。ところが駅から浮島への車道はトンネルが1本だけ、大渋滞は必至。参加予定者はウオーキングも合わせて1万3000人。朝のスタート時間までにどう送り込むか。県警とも相談したうえでマイカーの乗り入れは禁止、バス輸送に絞りました。

市交通局が手をつくして30台のバスを確保、ピストン輸送してもらえることになったのですが、悩みはバスプールと誘導案内を含めたスタッフの確保。少なく見積もっても600人が必要。支局の14人、管内販売会を加えた本社関係者、ガードマンを含めても確保できるのは300人。教育委員会が、お手伝いしましょうとスポーツ団体や体育指導員らの協力を提案してもらい、準備はいっきに進むことになりました。

 次なる問題はコース。高速道の完工検査の都合で開催日が正式に決まったのは約1か月前。車で試走して橋のジョイント部分の路面に隙間があることがわかりました。業者に頼んでゴムで応急工事。こんどは道路公団から注文がついた。開通直前なので道路管理の器機の損傷、路面などの汚れに注意されたい、それに橋からの転落も予想されるので誘導担当をきめ細かく配置されたい というわけ。人の手配はできたが寒空の張り番にはトイレや飲物をどうするか。簡易トイレを50個レンタルしてコースに配置、汚物処理は市がひきうけてくれた。

 橋からの転落にそなえたて警備艇の巡回もやっときまった。もちろん救急車と救急病院、それに清掃車も物産展やグッズの店の配置もきまった。市役所内でおこなわれた助役が指揮する湾岸マラソン準備会は当初、教委、交通、消防、港湾、警察の局関係者ではじまったが、そのうち建設、総務、清掃、衛生、経済の各局におよんで 局長会のようになってきた。

 気楽にひきうけた裏方役だったのですが 動き出すと難題がたちはだかった。役所の縄張りから見てもわかったのですが、不特定多数を対象にするイベント準備の大変さが身にしみました。明け方、ホテルの窓からなんども空を見上げました。当日はみごとに晴れました。前夜 トレーラーで大阪から運び込まれた缶コーヒーと水、Tシャツのヤマがどんどんくずれていきました。湾岸道路を鶴見つばさ橋に向けて帯のように連なる人波に、つい涙がこぼれそうでした。(写真は湾岸道路をうめた13000人の人波



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