鯰の見聞録 





☆ 小さな庭も冬の備え

  もう師走です。家の庭も冬を迎える装い。朴の木は、ささやかな風にも反応して葉を落とします。大きな葉は、一夜にして小さな庭を埋めつくします。けさも一枚づつ300余枚を拾いました。 舞い落ちる落葉が一段落したためか、いつもの雀たちがシジュウガラやアオジと群がってやってきます。冬の前に見られる「混群」。多くの眼で外敵を警戒しながら冬に備えて餌を探す野鳥たち。生きる知恵なんです。いよいよ師走選挙。惑わされなく2年を検証したい(20141202)


☆ 高尾山の”不自然”

 久しぶりに出かけた高尾山は姿を変えていました。雑木林をぬける尾根道に木道が続き、ビジターセンターやトイレなどの大型建物が目立つようになった。ミシュラン効果で外国人の観光客が増えてきたことへの対応。 シーズンの休日には、駅前から山まで人波が続くという。谷間をたどる登山ルートが登り優先の「一方通行」になり、「ルートの渋滞」掲示板が常設されていた。この日、私たちは裏高尾の林道から山頂を目指した。行く人もまばら、 どっこい 高尾の自然はのこってました。(20141107)


☆ 旅で出会った優しい人たち

 親戚の法要で会津に行ってきた。震災が影を落としてか町はいまひとつ活気がない。しかしその町で出会った人たちは親切であったかい。偶然だったろうか 例外なく旅人を優しくくるんでくれた。旅の終わり 道の駅で「イワチドリ」という草花を買った。 旅の途中、まだ細い茎が折れしまっては と居合わせた人たちが包装に知恵をしぼってくれた。新聞紙にくるまれた500円の小さな野草は 無事に持ち帰った。(20140514)


☆ 40年ぶりの沖縄
米軍基地の規模には変化がないのに、40年ぶりの沖縄は表向き平和で穏やかな地と映りました。海洋博準備と教研集会の取材で訪れたのは復帰をはたした70年代、基地を囲む金網と米兵が目立つ どこか灰色の町でした。 それから40年。町はかわっても基地の重荷を肩代わりする沖縄の心は灰色なんだと改めて気づかされました。最北端 辺戸岬にたつ「祖国復帰闘争碑」には 「沖縄に返せ」のメッセージが力強くこめられていました。(20131215)
    
 ☆ ゆったり 梅雨の白州の里

 友人を案内して何年ぶりかに白州次郎・正子さんの「武相荘」を訪ねた。見学者の出入りを覚悟していたが、意外にひっそり、人声もなく静まっていた。屋敷をおおう木々の緑は濃い、小高い丘のカエデや竹の葉が陽ざしをうけて光っている。草むらにぽつんと石仏がひとつ。    しずかな裏庭で白州ワールドにちょっとひたれた気分になった。梅雨の晴れ間の贈り物とでも云うんでしょうか。(20130627)


☆ 子雀たちの一人立ち

 佐渡にいるトキの子育てが話題になっています。わが家の庭で 親鳥から餌をもらっていた2羽の子雀も ひとり立ち、子雀だけでやってきます。 パンくずがお目当てだが、まだ警戒心は薄く、人の気配にも動じない。口から飛んだパン片も、みつけるようになった。この数日、2羽でパンくずをとりあう”遊び”も加わった。小さな目は、パンの転がる先を見つめていたらしい。ささやかな動きに成長を見ています。(20120603)


☆ 新緑の5月に新しい命

 なんだか異様な気配、ベランダで2羽の野鳥が羽ばたいている。朝 甲高く鳴くあのガビチョウだ。よくみると手すりにまだ産毛の雛が一羽。 このところ庭にくるスズメも2羽の子連れ、口移しでの給餌が朝の風景にとけこんだ。そして きよう、心配顔の蛾眉の雛もやがて親に励まされてか飛んだ。忙しかったこの5月、その間に新しい命が誕生していたのです。(2012.05.30)
 
☆ 金環日蝕

 きのう 金環食を雲の合間でみました。残念ながら輪になった瞬間は見落としましたが、炎のリンクにちょっと感動。 ふだんは気にすることがない地球と太陽と月の関わりを 黒めがねを通して意識させてくれた。わくわくする一日でした。 (20120521)


☆ ニッポンの、東京の ”田舎”

 晴れ間が広がった2日 若者たち16人を案内して里山を歩きました。桜美林大「楠本講座」のいわば番外編。留学生が多いバイリンガル講座だけに学生も多様。 野生ランに眼を輝かせるのは中国の留学生、道ばたのキノコに、草原のキノコを重ねたのはモンゴルからの学生。木イチゴの赤い実に故郷を思うのが欧米系。通りかかり、畑の人がばけつ3杯分もの胡瓜やナスをプレゼント。里山の自然と人のぬくもりを合わせ感じた3年目の野外学習でした。(2011.7.03)



☆見返り阿弥陀のやさしさ
関西での法事の帰り 京都に寄りました。高台から見下ろす銀閣寺の東求堂は緑のまっただ中でした。永観堂もこの時期はひっそり、見返り阿弥陀さんとも じっくり対面できました。 ふりむく小さな阿弥陀さんに やさしさってなんだ、と教えられるようでした。東山の深いみどりは柄になくセンチにしてくれます。(110620)

☆ 涙こらえて優しくもてなす東北の人

 義父の法事で会津若松に。白虎隊の悲劇で知られるこの町は福島原発から90`離れた地。それでも”風評被害”をうけて町は沈んでました。修学旅行などの団体客は例年の10分の1だとか。「浜通りの人たちを思えばなにこれしき」。 幕末から明治へと圧政の歴史に耐えた会津の人は優しくて強い。無骨でちょっと頼りなげにみえる120年前の観音堂も しっかり耐えていました。(110523)


☆ M8.8 巨大地震

 日が替わってやっと灯りが戻りました。11日午後、東北地方を直撃した巨大地震。上下の揺れに続いて、どんどん大きくなっていく不気味な横揺れ。机上のモニターが倒れ、書庫の本が音をたてて落ちていきます。 さいわい わが家はこの程度の被害にとどまりました。電気が復旧、テレビ画面に映し出された惨状に息をのみました。(110311)


☆ 彫刻との出会い

  ことし99歳の佐藤忠良さんの作品展を世田谷美術館で観てきました。10年前、善福寺のアトリエで、あった「群馬の人」や「帽子の女」などとも再会、気さくでいて、ちょっとはにかみやの彫刻家を思いました。美術館の前庭に、ひっそり「わだつみの像」がたっていました。なんどか来ているのですが 本郷新さんのこの像の存在を知ったのははじめて。関西の大学にあった主像は、全共闘運動のさなかに学生らの手で壊されたと伝わるだけに、像の前にしばらく立ち尽くしていました。
(110218)


☆ けなげな 一人旅

 7年間、60億`を飛び続けた「はやぶさ」。その7年の記憶を語る開発研究者の講演を聴いた。主役の衛星本体は1bちょっとの四角い箱。内之浦から飛びたち、制御装置の故障や電池切れなどに悩みながらの一人旅。月の向こうの小惑星イトカワは、ラッコににた岩山だった。太陽光からの思わぬ熱圧に悩み、2度の降下に失敗、不時着で運よく惑星の埃を持ち帰ることが出来たのだという。制御を続けた研究者たちの努力、小さな箱に、”けなげさ”を感じました。この講演、ことし1番の収穫でした(101227)


☆ 主役を通した池部さん

 わが家の留守電に 「俳優の池部良ですがー」という怒り声が残っていた。5年前、六本木でインタビュー、この折、定刻に会えず、この電話となった。機嫌が直って話がはずんだ。出演した映画は180本、脇役は他社作品の1本だけ。「主役はきめ細かさより大きな 演技を求められる。それがよかったかどうか」。アイビールックの「86歳」は、切れ味のいいエッセイも書ける永遠の主役でした。(101013)


☆ 2つの木造世界遺産

 「法事」で関西に行ってました。雨にうたれる工事中の姫路城を懐かしく眺め、じっとり汗がにじむ奈良では 法隆寺を歩きました。ともに 国内でははじめて「世界文化遺産」に指定された文化遺産。 なんども訪れているのですが、雨と炎熱のなか 見上げる木造建築に 人の手やぬくもりがじわりと伝わってくるようでした。(100629)

☆ たまには都心に

 たまには都心の空気にも、と休日の本郷界隈を歩きました。数限りなく行き来したこの界隈。湯島聖堂に大きな孔子像があることや明治期の木造三階建ての下宿「本郷館」がまだ現役だったことなどに感慨。狭い路地裏にあった樋口一葉の住まい跡、 啄木や宮沢賢治、金田一らここに住んだ東北人の”意地”にも思い巡らせました。そうだ高校の修学旅行の宿もこのあたりだったっけー。この日 都心の緑がさわやかに映りました。(100517)

☆ 伊豆の運慶仏

 運慶作と伝わる仏像にひかれて 先週、伊豆韮山の願成就院に。源頼朝が配流された北条一族の地。本堂で間近に見る毘沙門天、不動明王は、なるほど力強く迫力がある。脇侍の「せいたか童子」は、こまっちゃくれた悪戯坊やそのもの、 可憐にみえる「こんがら童子」との対比がおもしろい。時政創建のこの寺の庭は奥州の毛越寺を模したとされるが、戦火で跡形もない。庫裡の裏庭の木々がひっそり春をつげていました。(100318)

☆ 彫刻家の妻

 長年、彫刻家一家を支えた老婦人が逝った。故舟越保武さんの妻 道子さん。若い頃、女子美で画家を志し、新興俳句の旗手でもあった。結婚を機に夫の世話と桂さんらの子育てに専念する日々。5年前、88歳の婦人に美術館で会った。 長崎の「26聖人像」の制作の頃は毎日、お金の工面、晩年のブロンズ像は不自由な体で左手だけでの制作。ほんとうによく働いてくれました。保武が逝った日は聖人の殉教の日、あの聖人たちに迎えられたんでしょうね」。後にお手紙と詩集をいただいた。(200106)

☆師走のさと山

 きのう学生たちを案内して里山を歩きました。曇り空。散りおくれたもみじ葉が処々で色鮮やかに残っていました。里山管理のリーダー、山の田極公市さん宅では、にぎやかに餅つき。 庭先 たき火に手をかざして、勧められるままにいただいた餅。里山の恵みはことさらに美味しい。庭先の古木にはいまもムササビ親子が棲んでいるという。「こん夜 あたり飛びますよー」と話す自然観察員。ひとときの里山、学生たちもすっかり里山フアンになってしまったらしい。(091214)

 ☆ 平山郁夫画伯逝く
鎌倉にうかがった日、平山郁夫画伯は自宅隣のアトリエの鍵をあけて気軽に応じてくださった。絵の話、原爆被爆の話、大学のこと、長時間、さまざまに話がおよんだ。 「自分の本職は絵を描くこと、どんどん描けている時は判断や決断も早い。ほかのことが上手になってもしょうがないですね」とも聞いた。「5分で描ける、20分で描ける、1時間でやれるいう仕事の量を予め決めて、それをまめに拾っていくんです」 。あの大作の数々も貴重な時間の積み重ねだったのです。気兼ねなく長居の取材を反省しました。(091205)

☆ 銀座を歩くとー

 秋の日 「銀座」を歩きました。現役時代の思い出がいっぱいの町。なにもなければ銀座か動物園で、というのが新人記者の定石でした。夜の銀座は無縁、もっぱら昼間の雑踏が戦場でした。 栄養失調の”ミニ兎”を売っていた露天商、靴磨きのおばさんや4丁目交番の猫の話も活字にしたものです。それがいま、ミニ兎の店先はしゃれたブランド店に。でも、裏通りの長い路地や銭湯に再会してほっと。 隣接のビルが消えて、外壁に残った配線の”オブジェ”に 銀座の皮肉を見ました。(091121)

☆ 若い絵描きさん

 若い絵描きさんの個展をみるのに横浜に出かけました。5年前、はじめての個展に出会ったのきっかけで、過去3回の個展にも足を運びました。孤独やもどかしさなど心の内をきりとった作品に惹かれます。 うまいとも言えない、でも親しとぬくもりも伝わってきます。今回はクレヨン画も加わりました。雀がはばたき のそりと歩くネコ 心の奥底にひそんでいた幼児体験が さわやかでかわいい作品になってました。 ここにも夢がありました。

 ☆ 高さを競う山の手

 きのう 東京の山の手 「麻布」を 歴史散歩で歩きました。かって 取材先の往き来に車を急がせた近道。大名の上屋敷が大公使館や大邸宅にとってかわって いままた高級マンションが高さを競う町に変わる。 そのマンション 3LDKで2億3千万から4億7千万が相場と聞いた。坂の道沿いで蔓草におおわれた何軒かの廃屋をみかけました。やっぱり とうきょうは大きいんだー。(091108)

☆ おおらかさ いや生活の知恵

 10年ぶりの京都、きのうは鎌倉でした。紅葉で騒がしくなる前にと、気ままに歩いてきました。京都は、意外にも開かれた町だったんだ、という印象です。 寺社や学校、名所地の境界がさりげなく、通り抜けがあたりまえ。住宅地、商店街の裏路地も自由に歩ける”公道”でした。「そんなの当たり前のことでっせ」という声が聞こえてきそうです。(091011)

☆ 別荘の主は大学1年生

 山中湖にある友人の別荘に招かれました。「古希」の主は、この春から経営学専攻の私立大1年生。東大・経済卒、最大手企業の元役員、いまも非常勤役員。講師でも通用する履歴だが、一般入試に合格した新入生。 「毎日が新鮮だが授業はきつい」。同級生らとの会話はいまひとつだが授業では心がはずむ。目指すは8年先のドクターコース。聞いてるわたしも”勇気”をもらえたのですがー。(090925)

☆ 気があったライバル紙記者

 親しかった記者仲間がガンで逝った。元読売新聞編集委員の石山茂利夫さん。現役時代、妙に気が合った”ライバル”。退職後も話し合える友人でした。 なぜか「国語辞書」にこだわりつづけた元記者。4月末、わがやで、朴の花をながめて、話し合ったのが最後でした。「そっとこの世を去りたい」 が遺言だったという。そのひとことが彼らしい。(090722)

☆ 畦地さんってご存じ
畦地さん
 いきなりの表紙写真、畦地さんってダレと聞かれました。素朴で無骨な山男を刻み続けた版画家なんです。雑誌「アルプ」の誌上で永年親しんできました。 10年前、町田・鶴川で、亡くなったのですが、晩年、市に寄贈した275点が市立の版画美術館開設に結びつきました。わが家のカレンダーも毎年、畦地版画なのです。(090717)

☆ みどりの渓谷で

  つい先日、西沢渓谷を歩きました。仲間たちとの山歩きです。紅葉名所もこの時期、人影はまばら。谷間で滝の音が どっどっと響きます。負けじと春蝉が声を合わせています。 新緑が気分を優しくしてくれるのだろうか、雑多に聞こえていた音も、やがて耳になじんできました。そういえば 谷の入口で「セラピー基地」という看板をみかけました。(090605)

☆ 変わる浅草

10年ぶり 浅草界隈を歩きました。仲見世の通りでは外国人が目立ちます。居酒屋が軒を連ねる六区の通りは、串焼きの匂いがたちこめ夜のにぎわい。 花やしきの観覧車だけは変わらずがゆっくり回っていました。この10年、浅草は活気を取り戻したようですが、日本は遠のいていくようでした。 かって馴染んだ西浅草のお好み屋「染太郎」もさま変わりしたと聞ききました。(090603)

☆ 数奇な陶工に興味

 動くと”発見”があるんですね。きのう、近くのお寺で、「尾形乾山(6世)」父娘の墓石にであいました。バーナードリーチの陶芸の先生。 なぜこんなひなびた処に?、十字架が刻まれた墓石にも首をかしげました。この偶然の出会いで夢がふくらんできました。急がず、ゆっくり調べてみることにします。 (090513)

☆ 大和路のほとけさま

さくらの時期、関西に居ました。暇をみて,若葉の大和路をめぐりました。鑑真和上像と夢殿の救世観音が公開中と聞いたからです。鑑真像からは大きな人のあったかさを感じました。フエノロサの救世観音からは、なぜか野性味が伝わってきました。 薄暗い仏殿のせいでしょうか。すでにみた百済観音の笑みとのびやかさにやっぱり惹かれました。この時期 大和にはさまざまな風が吹いていました。(090415)

☆ なつかしい 四谷見付橋

 青空に誘われ、急坂をこえ、多摩ニュータウンにでかけました。公園の黄葉は鮮やか、思いがけず「四谷見付橋」にも出会いました。新宿通りに架かっていた最古の鉄橋。現役のころには、なん十回、いやなん百回も通り過ぎた橋でした。 15年前、この地に移設、復元されていたのです。都心の雑踏を離れての近郊での二度のおつとめ 周辺の風景になじんでみえました。わが身に置き換え、ちょっと親しみを感じました。

☆ あれから半世紀

 私立高専を見学しました。近くにあっても関心はいまひとつでした。高専には、田中角栄首相が進めた新産業都市の”働き手”づくりのイメージがあったからです。あれから45年。促成養成の批判をかわし5年制のメリットを生かした「プロジェクト教育」がしっかり根付いていました。  ロボコンもエコカーづくりも高専ならではのプロジェクトの産物だったのです。半世紀ぶりに高専を見直すことになりました。

☆ 東京だっておもしろい

 今回の”江戸歩き”は銀座・築地でした。わたしにとっての築地は、中央市場と本願寺、それに聖路加病院などの取材場所でしかなかったのです。その築地が蘭学事始の地であり、慶応、立教、青山、明治学院などの発祥の地だったと知りました。 「文明開化」の発信地だったんです。いまになって東京がおもしろくなってきました。(081110)

☆ 読書の秋

八木義徳さん。9年前、町田で亡くなった芥川賞作家。きのう 市民文学館での展示会にちなんだ講座がひらかれ、聴講しました。紅野敏郎氏(早大名誉教授)による、戦後日記を下敷きにしての作品解説、作家の心の動きと作品との関わりがおもしろく、つい聞き惚れました。地味な私小説作家のキーワードが、 「耐える」だったとか。自宅で小説を読み返してみた(081102)

☆ さようならゲイマーワイン

「ゲイマーワイン」最後の日に葡萄園に立ち寄った。1952年に仏人のゲイマー夫妻が相模原に創業したワイナリーです。 手づくりのワインは、おしゃれで値段も手ごろ、以前 わが家の贈物の定番、2万坪の広い葡萄園は癒しの里でした。それが4年前土地の売却がきまり閉園していたのです。 たまたま通りかかった日が残務整理最後の日。清掃を終えた従業員らが一休みするテーブルにはまだ青い葡萄の実がー。この夏も50年樹は たわわに実をつけたのです。「でも 熟れる前に伐られるのかな」。女性従業員は さびしげでした。(0800830)

☆ 「8月」にふさわしい本

 姫路の知人から新刊書が送られてきた。「はりま・相生事件を追う」(こちまさこ著)。終戦の年の9月、中国から連行され相生の造船所で働いていた3人の中国人が惨殺される事件が起きた。 ヤクザとの喧嘩話として処理されてきたのだが、10余年におよぶねばり強い取材で、責任逃れに狂奔した会社、警察、外務省の動きが明らかにされ、戦中の軍国日本の暗部にも迫ることになる。小さな一冊が大著にみえてきました(080825)

☆ 能登地震から1年

 能登で満開の桜を見て、帰宅して庭の桜に再会しました。ことしの花のいのちは長いようです。震災から1年たった能登路。凹凸道や土塀のひび割れに爪痕をみました。口八丁 手八丁、元気印の地元ガイドさん、空港での別れ際、「能登においでいただきー」といったきりで声をつまらせ、流れる涙を手でぬぐった。頑張ってください と思わず声をかけた。(080412)

☆ 法然忌

 知り合いの彫刻家が増上寺に「阿弥陀三尊」を納めたというので出かけました。7年かけた力作、大広間に存在感がありました。折よくこの日は徳川家霊廟の特別公開日。驚いたのは 6代もの将軍が東京タワーの足下に眠っていたことです。「タワーもホテルも元は寺の境内、それも墓所でした」と案内の僧侶。あらためて時代を感じました。(080405)

☆ おかげさまで20万件

 3年ぶりの会津の旅。裏磐梯はまだ深い雪、ふもとの町もふかく沈んでいました。駅前にあった洒落た喫茶店も昨年、店じまい。駅前発のバスの路線、ダイヤも大幅に間引かれ、さらに客足が遠のいたようです。地元が期待をかけた自動車道。この開通は、地元の”過疎化”に拍車をかけることになったようです。こんな嘆き節、自動車道が縦断した淡路島でも聞きました。(080315)

☆ 王子江の作品展
上野で水墨画展をみてきました。在日中国画家、王子江さんの作品展。ひときわ目をひくのは100bもの画布に描かれた等身大の人の群れ。薬師寺に納められたのは僧たちの一群、銀座、NY、チベットで出会った人々の印象も精緻に描きこまれていました。 水墨と洋画の持ち味がみごとに融和したプロ作家の作品、それでいてどこか人なつっこい。この障壁画からは魂の歌が聞こえてくるようでした(080303)

☆ 江戸歴史散歩

向島界隈をめぐる江戸歴史散歩講座に参加しました。露伴や堀辰雄の旧居跡、百花園や墨堤を歩いて長命寺桜餅も味わいました。大震災と東京大空襲、かって2度の災禍に襲われた東京の下町。 狭く曲がった路地、やっと残った石塔や石碑だけが江戸の歴史を語りかけてくれるようでした。墨堤もさまがわりしていました。(071028)

☆ トキのいる島
40年ぶりの佐渡でした。青田をスイーとイワツバメが飛びます。露天風呂のヒサシでは親ツバメが雛たちにせっせと給餌していました。青田の向こうに海がみえる、昔 懐かしい風景が広がっていました。島ではこのところ渡り鳥が増えてきたそうです。 人工飼育のトキの放鳥に備えて 地元では無農薬 棚田造成などの環境づくりが進んでいるようです。 そんな地道な努力が実を結んできたということでしょうか。(070702)

☆ いぶし銀の業績

 東京も入梅です。多摩川沿いにある府中市のきょうどの森でも 紫陽花がとりどりの花をつけていました。ここでは常民学者宮本常一さんの足跡展が開かれてました。どこまでも自分の足で歩いて書いた膨大な著作、いぶし銀を見るおもいでした。 「宮本学は私どもに遺された。それだけでも望外な幸運として、私どもはよろこばねばならない」(司馬遼太郎)(070607)

☆ 出会いのおもしろさ

きょうは めずらしく歌曲を聞いています。佐藤しのぶさんのコレクションCDです。先日のインタビューで、とっても親しみのあるプリマドンナという印象を得ました。 オペラとは縁遠かったのですが、来月のソフイア歌劇場の「オテロ」を見ることになって、にわか勉強です。眠くならなければいいがと案じています。(051110)

 この暮れは、めずらしくクラッシックにエンがあります。先日のショパンフェエスティバルに続いて、昨夜は上野でオペラの「オテロ」でした。ソフイアの名歌手たちとは一歩もひけをとらない佐藤しのぶさん。陰謀と愛憎が渦巻く中 無垢で誠実なデズデモナ役をみごとに演じてました。舞台女優の貫禄も。居眠ることもなく約3時間 舞台にくぎづけでした。 この日の座席は 東京文化会館2階1列11でした。

☆ なぜ いま トルコなの

 約2週間 トルコの旅に出てました。ご心配をおかけしました。現地は連日の晴れ、トルコブルーの海と空をながめて歩いて、ほんのすこし 「文明の十字路」を感じてきました。いまは花の季節、エーゲ海沿いの古代遺跡に ひっそり咲く草花にもひかれました。 近々 写真をアップします。(070424)

☆ 冬の大和路

 瀬戸内海の明石で落日をみて 奈良では間近に仏像をながめてきました。冬ならではの ゆったりした旅でした。仏像や高い塔屋を見あげて あらためて古い時代の大きさ、おおらかさを感じました。ただやたらに立つ「世界文化遺産」の看板が興ざめでした。(070216)

☆ 白川静の世界
 中国文学者の白川静氏が96歳で亡くなった。6年前、京都・桂のご自宅でお会いしました。「知識は全て疑うことから始まる。疑うことなくして本当の知識は得がたい。 疑問を解き明かしていくなかで知的な世界が生まれるんです」と 淡々とした語録が取材メモに残っています。「字統」「字訓」「字通」の漢字の大辞典3部作を刊行したばかり。建売住宅の三畳ほどの応接間、4万枚ちかいペン書きの「字通」の原稿が背の高さほどに積まれていました。「いま著作集のまとめをしてます。 5年もかければできますよ」とこともなげに言う。04年 文化勲章受章。世間に媚びること無く漢字研究を貫いたほんものの学者でした。(061101)

☆ 惜しいノンフイクション作家

 「わたしで役にたつことがあればいつでもこの電話にー」と わが家の留守電に電話番号を残していたかっての会社の同僚が逝った。ノンフイクション作家の上之郷利昭さん。豪快にみえて細心 ものやわらかな語り口だが その切っ先は鋭い。でも このところかれの原稿をみることがなかった。講演で全国各地を飛び歩いていると聞いた。 結局 携帯電話にはかけないままに終わった。http://homepage.mac.com/whitenoize_1/link/index.html(060918)

☆ 富士の山じまい 吉田の火祭り

 大通りで78の大松明がいっせいに炎を上げていました。誘われて出かけた富士山麓の「吉田の火祭り」は、にほん三大奇祭のひとつ、鞍馬の火祭りの派手さはなく、ただ ただ火の粉を散らして夜空を焦がすだけ。外気17度、火勢で汗がにじむ。富士のお山じまいを告げる浅間神社の”送り火”だったのです。 燃える松明は天にむかって夏の終わりを告げているようでした。(060827) 

☆ マイナスじゃないプラスです

 社会学者の鶴見和子さんが10年間の闘病を経て88歳で逝った。98年7月、療養先の伊豆高原にうかがった=写真。「今の私は半分死んで半分生きています」。はじめてのひとことでした。「老いること 病気になることはけっしてマイナスじゃない」。「病気にならなければ ひたすら走り続けていたでしょう」。 車椅子の生活で9巻の著作集をまとめ、娘時代に親しんだ短歌に心境を託した。なによりも 自身の「内発的発展論」を 老いの暮らしのなかで実証、「女書生」をつらぬき通した才女でした。(060808)

☆ 木曾・王滝村の旧御用林

 梅雨明け、木曾の国有林をまちだの仲間たちと歩いてきました。伊勢神宮の神木を育てる原生林、一日2組 人数制限をうけてやっと入山できる秘境。こんな環境の中で大樹はまばら、意外でした。このヒノキの大樹は 激烈な生育競争で勝ち抜き、間引きをまぬがれてきた3−400年ものだそうです。 木の習性とはいえ このエリートたちがなぜかさびしくみえました。(060804)

☆ 真夏の夜の夢

 きのう夜 日比谷公園でフラメンコをみました。小松原庸子スペイン舞踏団の「真夏の夜のフラメンコ」。暑いさなかに強烈な動きと音 昨年は敬遠しました。それが 意外に「さわやか」に楽しめました。動と静 白と赤 カッカとコツコツ 若い女性 目立つ中年男性・・・。夕風が涼しい座席で こんなキーワードをたぐっていました。(060728)

 ☆ ピアニストとの出会い

 梅雨が戻ってきました。曇りガラスの世界です。そんな霞の中でウグイスの声が響きます。栗の花のムーとする匂いがハナをつきます。きのう お会いしたのはスタニスラフ・ブーニンさんでした。 19才でショパンピアノコンクールを制した天才ピアニスト。舞台をおりたピアニストはちょっと照れ屋の紳士でした。話の最後は「日本を終の棲家にしたい」。来週のサントリーホールでのプラハ放送響との競演が楽しみです。(060620)

☆ 友人がうち続ける能面
 きのう 面をうつ友人の能面展に出かけました。友人が飾った7面のうち5点は女面。さらっと見た感じだとそれほど違いがない。でも近づくと 彫りの深さで表情が変わる。口元をぐっとひきしめた面は妻女でした。重厚長大の鉄鋼業界で過ごしてきたこの友人、ここにきて たおやかな「幽玄」の世界がちょっと理解できるような気になったと笑う。(060615)

☆ 意地が生んだ異境の北斎館

 友人に誘われて北信濃を旅しました。江戸の浮世絵師 葛飾北斎の安住の地はこの信州・小布施でした。90年の生涯で、北斎がこの地に関わったのは晩年の5年間だけ。それがなぜー。時の流れに置き去りにされそうになった小さな町の「意地」と「知恵」が実をむすんだのです。”北斎サミット”もこの町でひらかれ、北斎はすっかり町の顔になっていました。(060528)

☆ シューベルトも歌っていた合唱団ういーん少年合唱団

 雨のきのう 初台でウイーン少年合唱団の公演を聴きました。25人とピアノ1台だけの素ぼくなステージ。モーツアルトの宗教曲もウインナーワルツも赤とんぼも 澄んでさわやかに響きました。 創立から508年、ボーイソプラノの「旬の音」を守り育んできた合唱団。素顔の美しい人にであったような気分でした。写真はウイーン少年合唱団を率いるイエッサー理事長、この人もかって歌う天使の一人でした。(060507)

☆ 火中の栗をひらう 

 暮れになってJRの脱線事故が起きた。ことしは足や住など生活基盤がゆさぶられた年でした。そのJR西日本の立て直しに高校の同期、倉内憲孝さんが起用されるようです。学帽を目深くかぶったかっての秀才。 JR西日本会長職は ずしりと重い役柄。事故の現場で 神妙に頭をたれる級友の姿だけはみたくない。(051230)

☆ ギリシャからの近況 

近所のアキちゃんがギリシャの新国立劇場のこけら落としのオペラ公演に出演していました。「魔笛」のクナーベ役。たまたまWEB検索をしていてブログをみつけました。 40日余の長期公演 その近況が現地から伝えられていました。そうだ ブログやHPにこんな使い方もあるのだ と教えられました。それにしてもあのアキちゃんがーhttp://www31.ocn.ne.jp/~alst/index.html
 
☆ いきいき動く動物たち
 先日の旅で旭山動物園に寄りました。新築の動物舎に手書きの看板が目立つ よくある動物園。でも違っていました。どの動物たちも毛艶がよくって 目がきらきらしていたのです。評判の秘密は みんなが動物たちにホンモノの愛情をそそいでいたことなんだと納得しました。オランウータン舎では母親が居眠り、代わって子ランウータンがひとり空中ブランコをたのしんでいました。
 写真の動物 それぞれに想像されたようですね。「物思いに耽る?いいえ一人はずれてお散歩? ひょっとすると家族のいない寂しいひとりもの?」 こんなメールもいただきました。じつはキングペンギンの子どもだったのです。群がるフンボルトペンギンをしりめに 「いまにボクだってー」 という小さな気概が聞こえてきそうです。

☆ 出会いのおもしろさ

 きょうは めずらしく歌曲を聞いています。佐藤しのぶさんのコレクションCDです。先日 インタビューして とっても親しみ深いプリマドンナという印象を得ました。オペラとは縁遠かったのですが、来月のソフイア歌劇場の「オテロ」を見ることになって、にわか勉強です。眠くならなければいいがと案じています。 (051110)

 この暮れはめずらしくクラッシックにエンがあります。ショパンフエスティバルに続いて昨夜は上野でオペラの「オテロ」でした。ソフイアの名歌手たちとは一歩もひけをとらない佐藤しのぶさん。陰謀と愛憎が渦巻く中 無垢で誠実なデズデモナ役をみごとに演じてました。舞台女優の貫禄も。居眠ることもなく約3時間 舞台にくぎづけでした。この日の座席は 東京文化会館2階1列11でした。

☆ 東欧の崩壊と再生の現場を歩いた男

 また好漢がガンで逝った。仏文専攻だったが汚れ役が似合う陸口潤さん。モスクワ特派員を3度、マルコス政権崩壊の現場にも特派、「あらためて民衆のパワーを体感した」と興奮気味だった。大学では立花隆氏と同じ教室だったとか。しぶとく追究する姿に共通点があった。訃報は身内だけの葬儀の後に伝わってきた。(051002)

☆ 古戦場と「源流」の違い  

ひさしぶりに日比谷公園に行きました。デモや決起集会の取材で駆けたかってのわたしの古戦場。この日ヴァイオリニストの前橋汀子さんにお会いしました。 小学生の頃 ここの公会堂で聴いたヴァイオリンの響きが心に残りいまの道を歩ませたということです。

後年スイスで師事した巨匠ヨゼフ・シゲテイとのはじめての 出逢いもこの公会堂だった。「私にとって日比谷は音楽人生の「源流」なのかもしれません」。 前橋さんは斉藤秀雄に教わり、レニングラード音楽院、ジュリアード音楽院で学んでカーネギーホールで演奏会デビューを果たした国際的なヴァイオリニスト。 日比谷公園への思い  もちろん比ぶべくもありません。(05.08.19) 

☆ さようなら 串田孫一先生

 20年前になります。 串田孫一さんとはじめてお会いする前、頑固で厳しい人だ、と聞いていました。しかし 実際には気持ちのやさしい教養人だったのです。おそらくは 漢字の一文字にも妥協を許さないあの厳しさが、頑固にみえたのかもしれません。串田さんは 最後の文章家だったといまだに思っています。
先年、串田さんから著作集をいただきました。旧漢字の字体にこだわり、装丁から紙の質にも注文をつけたようでした。「出版社には申し訳なかったんですが、回想記でもあるわけですから、その時代をきちんと残しておきたかったんです」。だからこそ自分にも厳しかったのです。 「文章を書くのはつむじ曲がりが苦労をするために書いているようなものなんです。それは真剣勝負、楽をしては書けません」。いいかげんな新聞記者のわたしには耳の痛い話でした。

 串田さんは、東京外語大の哲学の教授でした。しかし本心は自然を書く随筆家、チェロを弾き、ラジオで1500回も音楽が話せる音楽家でもあったわけです。それに「洟をたらした神々」の吉野せいさんに陽をあてた編集者でした。  父親は戦前の三菱銀行頭取、豊かさを蓄え、思索することを身に付けて成人されたようでした。
 退職のとき お手紙をいただきました。「不整脈に威張られて、すっかり失礼して仕舞いました。山本さんがおられなくなると**新聞は東京湾の向こう側へ行ってしまったような気がします。まだ2月、これからも寒さに震える日があるでしょう。呉々も元気におすごし下さい」。(05.07.09)

☆逆さマッターホルン
マッターホルン
きのうは32.5度、真夏日でした。スイスに行ってきましたと ネットの友人から涼しげな写真が送られてきました。 一週間前のマッターホルンの姿です。
「現地はさわやか、健脚のはずが さすが歩き疲れました」とメールが添えられていました。うらやましい。 そこで この写真を拝借して、みなさんにもお裾分けすることにします。(6/26)


☆ ある映像作家の死 

吉田元さん。自然と共生しながら生きてきたカメラマンでした。4月25日にガンで亡くなりました。遺言とうりに知らせることなく、家族とごく親しい仲間だけで秘蔵の酒を酌み交わして送ったようです。この人らしい「あいさつ」を再録しました。(050622)

  私・吉田 元は平成17年4月25日 くたばりました。4月28日、自宅でごく近親者のみに送り出されました。通夜も坊主の読経もありません。いきなり棺に野の花を投げ込み、葬場へ直行です。今ごろは小さな骨壺の中でしょう。この上もなく暗く、いやな場所です。早々に瀬戸の来島海か頓田川河口(ふるさと)でも、あるいは八重山の海辺にでも ばらまいてもらう手はずです。地球が墓場になります。好きなときに世界中に出かけます。
 春のホオジロのさえずりに聴きいり、アルゼンチンのパンピエロ(季節風)を見たり、秋には皆さんの家の庭の片隅でコオロギを聴いているかもしれ ません、とにかく70余年の楽しい生涯でした。快い人たちーあなたのことですーに出会い、全く愉快でした。思い残すことがありません。素晴らしい一生です。ありがとう。それではー  元

☆つかれました東北の旅

 桜の東北路を車で走りました。会津で義父の法要に出かけたのです。車の運転は苦手、「もっと乗らなきゃ、車がかわいそう」とディラーにハッパをかけられての旅でした。満開のヤマザクラに出会い、茅葺きの家が連なる大内宿でちょっと昔にひたりました。桜も人もおしつけがましくないのがいい。とはいえ流れの速い高速道路では疲れました。(4/26)

☆ ひさしぶり高円寺という町

 「高円寺」は落ち着いた街だと思っていました。昔はそうだったからです。実際には にぎやかでいてひっそり、息づいてる町でした。この町でフラメンコの舞踏家小松原庸子さんに会いました。常磐津の師匠宅に生まれ、日舞、古典バレエ、新劇を学んで、いまスペイン舞踏の第一人者。「踊ることが生きていること」といまも踊る。 和洋の芸をみごとに咀嚼して花ひらいたこの女性は、高円寺に似合って見えました。(4/14)

☆ ユーザーの目線で28年

 神奈川テレビの「新車情報」が3日夜の1448回目の放送で終わる。三本和彦氏の辛口批評が評判をよんだTV番組。企業や世論にも媚びず、つねにユーザーの目線を貫く、U局ならではの番組だった。「もうジジイの出番ではない」と自身で28年続いた放送に終止符をうった。いかにも彼らしい引き際だった。会社の先輩がまたひとり去った。(4/3)
☆ 挑戦するわか者たち

 親戚の若者が本をだした。「アメリカでプロになるースポーツ界で活躍する法」。大手運動具会社のアメリカ駐在で、大リーガーともつきあい、退職してスポーツ留学の斡旋業をはじめた。本はアメリカ体験と留学のノウハウを書いた。その転職時にいまどきの勇気に驚いたものだ。しかし待てよ、ホリエモンの例もある。しばらくこの若者の動きを見守ることにしよう。(3/15)

☆ 俳句と自然科学


庭の桜にツグミがとまりました。食虫をもとめてせっせと幹をついばみます。ヤマザクラノの花芽はまだ硬い、懸命なツグミの姿は春の到来を頼み込んでいるようにも思えます。このところ 野鳥観察がおもしろい。物理学者で俳人の有馬朗人さんに「自然」を見ること、手を使うことの大切さを教わりました。「自然は美しい。その自然の美に学ぶのが俳句であり、自然科学なんです」。だそうです。

☆ 壁に向き合う ただの市民

 その昔、編集者としておつきあいしてきた大下勝巳さんが4月から川崎市の「宮前区長」に新任すると聞いて驚いた。区長はどこでも市幹部の特設ポスト、指定都市では初めての民間人の起用だという。市民意識と感性を行政に持ち込んで欲しいということらしい、と彼からメールが届いた。とりあえずは厚い壁に立ち向かう彼に拍手をおくることにした。(03/03)

☆ 変わらぬ七色の声


30年ぶりだろうか中村メイコさんにお会いした。不思議なことだが容姿も声もあのころとかわらない。南麻布のネイルサロンで「わたしのオアシス」を聞いた。2歳の時から芸能界につかってきた「スタジオっ子」。だから大自然や田舎では落ち着かない。ほっと一息入れられるのは、東京の23区のそれもちょっと騒がしい舞台やスタジオだという。そんな話がキザにきこえない本物の芸能人でした。(05/01/31)

☆ 友人が著した一冊

 記者仲間の石山茂利夫さんから著書「国語辞書事件簿」(草思社)が送られてきた。定年後に取材を重ねて書いた読み物、面白く読んだ。現役時代から取材熱心な記者だった。遊軍記者時代に「国語」の連載に関わってずっと興味を持ち続けた。「記者生活で学んだ集大成」というひと言が痛く刺さった。
      
☆ 高田馬場の立ち飲み屋で

 立ち飲み酒場でのインタビューは味があった。村の暮らしや祭りを撮る写真家芳賀日出男さん。飲むほどに思い出話がひろがった。海外取材も101カ国に及ぶ。でも心に残るのは奥三河に伝える「花祭り」。信仰と芸能がみごとに調和した祭りだという。話しながらまたジョッキがひとつ空いた。座りたくなったら酒は限界、酔っぱらいがいないのが立ち飲みのいいところ.。 83歳は、店のオヤジさんにエールをおくって夜の町にきえました。取材のメモ帳は白紙のままでした。(04.11.10)
      
☆「三本節」 健在でした

  けさ 目を覚ましたらヒット件数が8万件を超えてました。きのうは東京・神楽坂を歩きながら ひさびさ 「三本節」に聞きいりました。TV「新車情報」の三本和彦さん、歯に衣をきせない辛口の評論家。「だってヤマちゃん世の中 間違ってるよ」とはじまると話はとめどない。車社会を悪くしているのは官僚や官僚上がりだ、と歯をむく。三菱車の欠陥隠しでは並み居る評論家氏は沈黙、TVや新聞でコメントしたのは彼だけだった。「日本は車を開発する文明はあるが、使いこなす文化がない」 (「クルマからみる日本社会」岩波新書)と書いた。かわらぬ好漢でした。(040911)

☆> 「蚊の時間」って

 ギリシャ五輪がはじまった。花を撮ろうと庭にでたら ヤブ蚊の襲撃にあった。乾いた庭の片隅でしたたかに生きていた。先日、お会いした 「ゾウの時間ネズミの時間」の著者、本川達雄東工大教授なら「蚊にも蚊の時間があります。そこを考えなきゃ」と云われそうです。それにしても痒い。(8/14)

☆ 元気に輝く 88歳

 世田谷美術館で彫刻家の未亡人にお会いしました。現代彫刻の世界で光る舟越桂、直木兄弟を育てた舟越道子さん。88歳、元気に輝いていました。

 ご主人は長崎の26聖人像を刻んだ舟越保武さん(元東京芸大名誉教授)。若い頃の貧しい暮らしも聞きました。好きな詩と絵をなげうってずっと家族を支えつづけてきたのです。「ヤスタケは本当によく働いてくれました」 短い言葉に気持ちがにじんでました。
                かって女子美で学び、文化学院で佐藤春夫から詩を学んだといいます。  いただいた句文集には洗練された言葉がならんでいました(040615)
      
 ☆ コムロさんの心の歌
 
 フォーク歌手の小室等さんはおだやかな紳士でした。多摩美大で彫刻を専攻したはずが学生時代はフォーク漬け。音楽に”手ざわり”を感じるようになって美術に強い関心がでてきたと話します。小室さんが作曲したTVドラマ「蝉時雨」  ちょっとおしゃれな曲も広いアートの世界が土壌になっているようでした。

「フォーク」はプロテストソングといわれます。「本当のプロテストソングはラブソングだと思うんです」。帰宅して「出発の歌」を聴きました。写真は小室さんのHPから借用しました。話が興味深くって撮影をわすれていました。(040514)

☆ 自家本「木の芽の味覚」


このHPの「野草を摘む」にも登場している野草研究家の福島誠一さんから自著の自家製本「木の芽の味覚」をいただいた。木の芽をめぐるエッセイに版画家の自摺りの木版4葉がそえられた和綴じの新書版。歩いて探して食べてみた体験を書いたエッセイ集だ。 フクちゃんはかっての同僚、仕事で手がけた野草摘みが、みごとに波長に合って、いまや野草をうまく食べることが出来る第一人者。定年後も執筆、カルチャーセンターの講師と忙しい。生き生きと活動している様子が本からも伝わってきた。かれはこんな生活を仕掛けたわけでもない、時代にあった生き方は向こうからやってきたのだ。

☆ 荻窪で聴くアンデスの風

 はるかアンデスから吹く風を感じさせてくれるフォルクローレは好きなんです。きのうは、ぜいたくにも、ギターの名手の演奏をひとり聴かせてもらいました。ユパンギのただ一人の弟子ソンコ・マージュさんに西荻窪の自宅でお会いした。話の途中で、「弾くというのはこういうことなんですよ」と、いきなり弾き始めたのです。 「鳥の歌」に続いてフォルクローレの名曲「インディオの道」、追われて石ころの道をたどるインデイオの悲しみがじわりと伝わってきた。(040413)

☆ さいごの碩学 白川静

 白川静さんの「常用字解」に、はまりました。93歳で現役の漢字学者の漢字基礎字典。ひとつの漢字を読み解くと何千年もの前の風習までが透けて見える面白さ。エジプトの象形文字よりドラマテックにみえる。「中国行ってません。行ったって3000年前が見れませんからね」と話した白川さん。 狭い応接の片隅に背の高さほど積み上げられた手書きの原稿を思い出します。梅原猛さんが一目も二目もおく碩学でした。(040408)

☆ いまもダンディな俳優さん

  出演した映画は180本、ほとんどを主役で通した俳優さんに会いしました。かっての二枚目スターの池部良さんです。書いたエッセイがもう30冊、軽妙でユーモアがあふれるエッセイは楽しく読める。傘寿が過ぎたいまも、とてもダンディでした。 「近くのラーメン屋に入りたくっても一人だと気後れしましてね」。そんな”こだわり”が若さの秘訣なんだろうか。麻布のレストランで、古い映画の話にひたりました。(040317)

☆ 「砂の女」のムラで

 ひょんなことで教室で小学生に話をすることになりました。山形県の庄内空港に近い浜中小学校の5,6年生の子どもたち。取材のアポイントをとるのに連絡した地元の公民館からの依頼での課外授業でした。大学の教壇にたったことはあっても小学生相手は初めてだったのです。

 小学生の見る目は真剣でした。「砂の女」を話すうちにいつか「ふるさと」を見つめる目について話していました。「東京に住んでていいことはなに」と質問がむけられました。「そうですね、手軽に文化に接触できることかなー」と答えて、その文化ってなんなの、と自問していました。 そう、この砂の町には生きた文化があるんです。都会に住む者のおごりじゃないかとちょっと恥ずかしくなりました。1時間はあっというまに過ぎていました。

☆ やはり「娑婆」がいい>

  池上本門寺の酒井貫主にお会いした。軽妙なエッセイも書く日蓮宗の高僧。寺の応接間に「極楽を保証されても娑婆がいい」、相田みつおさんの言葉が掲げられていた。貫主さんの好きなひとことだという。来世に安楽を求めるのが信仰の形と考えていただけに、「娑婆がいい」というひとことが心に響いた。 「わたしにとってはこの言葉が法華経の神髄だと思うんです。学者先生からはとんでもないといわれそうですがねー」と楽しそうに笑った。 この日、境内の広場ではクレーン車の作業音が響いていた。30日に開かれる姫神のライブコンサートの舞台作りだった。帰途 ガンで入院した友人を見舞った。(8/28)

☆ 国語教師の定年記念

この3月に定年を迎えた知人から手づくりの詩歌集が送られてきた。定年記念に自作の詩や歌を自費出版したものだろうと思いながらページをくった。ところがちょっと違う。万葉集から芭蕉、宮沢賢治、パスカル、漢詩までが収載された「玉手箱」でした。

 大学新聞時代の後輩にあたる彼女は高校の国語教師。大阪と東京で38年間勤め、その教員生活の中で出会い、感動した詩歌や文をノートに書き留めていたのです。「自分の38年間を記念するものがないかーふと思いついたのが、心にしみる詩歌の数々を一つにまとめることでした」。教わりながらパソコンで打ってみたということです。
 表紙には「私撰愛唱詩歌集」とあった。一つ一つの断片もこうして分類、編集されると鈍く光って見えてきます。その一編一句は教室のにおいもする懐かしいものでした。一つの区切りに、こんなやり方もあったんだとつい拍手をおくりたくなりました。

☆ みすずさんが住んだ町


山口県の長門市仙崎に行って来ました。日本海に面した小さな港町です。内海にそった市街地は家並みが低い古い町でした。

 「仙崎というところに行って来た」と知り合いに話すと意外や意外、みなさんご存じなんです。「あ あの仙崎かまぼこの町ですね」「金子みすずのうまれたところだよね」という具合です。驚いたのは「日本を初めてみたのは仙崎でした」と隣人はいいます。 敗戦直後、満州からの引き揚げで上陸したのがここだったというのです。十代の少女にとってはいまも忘れられない地だったんです。にわかに戦後が蘇ってきました。(写真は仙崎の外海)

☆ ガラスのない学校

 巨人の長島監督が今期限りで引退です。同年輩だけにちょっと残念。まあ晩節を汚さずに引退、よかったね、と拍手を送りたい気持。わたしもこれでアンチ巨人に徹しきれます。
 かってわたしも野球少年でした。小学生の頃には、石を布でぐるぐる巻きにしたボール、布団綿をくるんでつくった手製のグローブ、空き地で毎日のように三角ベースをやっていました。戦後直ぐの瀬戸内少年野球団の頃です。月刊誌の「野球少年」は東京から野球情報を運んでくれました。付録の野球ゲームでルールを学びました。テレビの無い時代、翌日、学校では雑誌から得た情報が話題になりました。

 姫路の城内球場にオドール監督が率いるサンフランシスコシールズがやってきました。川上、青田、藤村ら日本の選手たちもきたのです。夢の球宴です。外野スタンドの後方が私たちの中学校の校舎、掃除を理由に居残り、窓からこっそり見物しました。この学校の生徒だったことに感謝したものです。 しかしも場外ホームランがでるたびに教室の窓ガラスが割れるのです。ガラスは貴重品、先生の顔がその都度、ゆがんで青ざめていたのを思い出します。長島監督もこんな時代をくぐりぬけて名選手に育ったんでしょう。

☆ ある国宝の怪

 500円切手の図柄をご存じですか。カット目をむいた伐折羅(バサラ)大将なんです。奈良の新薬師寺にある奈良時代の十二神像の一つなんです。さきに名作の舞台の「古寺巡礼A」で紹介したのですが、新聞に掲載された後に何人もの読者の方から、500円切手は「迷企羅大将」のはずだ、と厳しい指摘がありました。

 一般にバサラと呼ばれているのですが、国宝の指定名はメキラになっているんです。国宝名が正確で、他は通称名と思われがちですがこの場合は逆のようです。調べてみると明治時代に国宝指定調査のさいに担当官が標識を見誤り誤認してしまったのです。文化庁もこれを認めているのですが、訂正にはそれなりの理由付けが必要なので、 面倒だとそのままになっているのです。お上のお墨付きにもこんなこともあるのです。(010825)

☆ 現代史作家の死 

児島襄さんが3月27日に亡くなった。担当編集者として急に思い出の記を頼まれ夕刊に急いで送った。
児島さんは、軍隊の経験のない戦記作家だった。だから膨大な資料をてってい的に読み解いた。ワシントンの公文書館にもなんどもこもった。「読んでいくうちに想像が広がっていくんだよ」といった。「講和条約」に次いで「ラストボロフ事件」を手がけ、「ジラード事件」の連載は後すこしのところで中断した。

 児島さんは三年前、自宅で脳梗塞で倒れた。順天堂大学病院で治療をうけ、伊東のリハビリ病院で療養、車椅子で動けるようになった。「わたしは三島を書きたいんだ。快復したら連載するよ。資料は集めてあるんだ」。戦後史検証シリーズの中で、いかにも唐突な感じだった。三島の激しい生き方に自分をかさねたかったのだろうか。
脳梗塞の病床でもタバコだけは手ばなさなかった。重病の床で医師に退院をせがんだ。「おれの読者がまっているんだ」と口癖のようにいった。この手のふるえがなければな、と嘆いた。好きな大相撲のテレビ画面はつけっぱなしだったが、見る目はうつろだった。「おれは編集者の顔をみながら書くんだ」。 ファックスや郵送での出稿を拒んだ。編集者には苦手な作家だった。ある日、「新潟からいい酒がはいったんだ」と自宅に招かれた。竹の柄杓で酒をついでもらった。そんな優しさもあった。(010328)

☆ 旭川にて

 三浦綾子さんの「石狩峠」をたずねて北海道・旭川に行って来ました。いまどき珍しい生真面目な作品に惹かれたからです。ご主人の三浦光世さんにもお会いしました。病身の綾子さんの口述を筆記、 多くの作品を仕上げてきた人です。だから「いまだにそこに綾子がいるようです」となんどもいいます。
 遺骨はまだ居間に置いてありました。2階の書斎はそのままでした。「ここに綾子が座って、私はここでー」。書斎の窓からはライラックの花が見えました。ご主人はほんとうにおだやかな人でした。作品の底流をみた思いでした。 旅の前にインターネットで「三浦綾子」を検索しました。ホームページの多さに驚きました。 新潮文庫の「塩狩峠」は65刷、280万冊文句なしのベストセラーですと、新潮社の話。

☆ 47歳の新米獣医

 獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。
  獣医をめざしたきっかけは、横浜の公園で拾ってきた老犬を飼育するようになってからだ。野鳥や野良犬の命をはぐくむ獣医の姿に打たれたらしい。まだ卵、3年間のインターンを経て一人前の獣医になるという。児童図書「すずめが手にのった」(偕成社)は7年前に彼女が書いた本だ。
 獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。

 ☆無着ワールド

 「やまびこ学校」の無着成恭さんは、成田空港近くの禅寺の住職さんでした。東北なまりの語り口がとっても懐かしく、いつのまにか無着ワールドにひきこまれていました。
 いまカンボジャでのボランティア活動に力を注いでいるようです。学校や図書館づくりをしてきましたが、これからは形のない先生の養成などをやっていくとのことです。ハコづくりには募金も支援も集まるのですが、人づくりなどの地味な仕事はそうはいかないようです。 これからは無着さんの本当の心が問われそうです。本堂のふすま絵は原爆の絵の丸木位里、俊夫妻の手によるものでした。桂林を描いた水墨画に魅せられました。

☆小説「伊豆の踊子」って

 暮れに大急ぎで伊豆の湯が島に行って来ました。川端康成が「伊豆の踊子」を書いた湯の町です。ちょうどシーズンオフ、町はひっそりしてました。「これが通常ですよ」と町の人は言います。
 昨年は川端生誕100年祭だったのですが、盛り上がったのは外国からの観光客だったそうです。ノーベル賞作家のカワバタの文学のふる里ということでやってきたのです。それもインターネット経由でこの町を知ったと言います。ところが日本の若者は、踊り子も川端康成もなじみがないようです。        わたしもこの町で、興味をもったのは井上靖の「しろばんば」でした。それでも「伊豆の踊子」に誘われるように旧天城トンネル(写真)を車でくぐりぬけました。<00.01.13>

☆ 自戒の一冊

 演劇評論の尾崎宏次さんの訃報がのっていました。戦前の築地小劇場時代から新劇を中心に評論活動を続けてきた人です。評論も新聞の劇評をちょっとみる程度、会社の大先輩だったのですが,会ったこともありません。

 しかし学生時代から縁がありました。新聞記者を目指す直接のきっかけが尾崎さんが書いた「パッカードに乗った森の石松」(カッパブックス)だったからです。社旗をはためかせた外車を乗り回し、威勢良く走りまわる新聞記者、 だけど外からみると、なんにも分かっちゃいない、調子ものの「森の石松」なんだよ、と自嘲気味に書いていました。新聞記者を目指していた私にとっては自戒の一冊でもありました。大事にしていたその本はなくなってしまいました。いまも古本屋で探し続けています。

☆ セザンヌ展

      
 横浜美術館の「セザンヌ展」にいってきました。うすらさむい金曜日だというのに会場は混んでいました。やはり日本人好みの画家なんですね。
       意外に淡い色調にほっと安らぎを感じます。作品はどこかで見たような懐かしさを覚えました。意外に淡い色調にほっと安らぎを感じます。
       安井曽太郎や白樺の人たちの絵でした。セザンヌの日本絵画への影響を改めて感じました。もう一度、ゆっくりみてみたい美術展でした。<99.11.12>
      

☆被災都市 神戸
      
      
 久しぶりの神戸でした。ビルが新しく新開地の風情でした。それががんばる姿だったんです。メリケン波止場には震災の跡(写真)を残していました。それをみて改めて地震のすごさを体感しました。

  楠本神戸市国際部長に案内してもらいました。もらった名刺は「復興局」とありました。その復興は。 神戸港の利用はなんとか震災前の8割までは戻したんですが、残り2割はなかなか戻りそうもないといいます。        震災前、15あった領事館は、いまは韓国、ペルーの2館だけ。震災を機に大坂に移って、そのままだという。震災の後遺症は深刻でした。<99.10.24>

☆ 落ち着かない親父さん
      
  友人の息子さんの結婚披露宴に列席したら 同じテーブルに落ち着かない親父さんがいた。30分置きぐらいに席をたってロビーで電話をかけている。もらった名刺には、「丸山エンタープライス社長」とあった。        この日はプロゴルファーの息子の優勝をかけての一戦。その途中経過が気がかりだったとわかった。
 ゴルフには関心がないが、翌日みたスポーツ面に獲得賞金2300万円とあった、なるほど、金の卵というのはこういうことなのかな、と変に納得していた。「そうじゃない、負け続け、再起の一戦だったので心配だったのだ」とゴルフ好きの同僚が教えてくれた。

☆ 炭坑の町はいま
      
      福島県のいわきに行ってきました。かっての常磐炭坑の町という印象しかない町でしたが、いってみると海と山に恵まれたところでした。蛙を詩に読み、お人好しの草野心平さんのふる里だったのです。山にある文学館で展示の詩を読み、       ふっと見上げると、なだらかな阿武隈が光って見えました。塩屋崎灯台からみた浜辺は白い波頭がみえまいた。

 ☆ 生涯修行 松原さん

          きょうは穏やかな老人に会った。禅僧で92歳の松原泰道さん。名古屋から戻ったばかりなんです、とにこやかに迎えて下さった。
「今日は暑いですね。さあ上着をとって気楽にしてください」と気遣われる。かくしゃくと言うのはこの人をいうのだろうか。こちらの話をメモしながら確かめる。毎週、カルチャーセンターの講師を勤め、いまも執筆活動に忙しい。        いただいた近著には「生涯修行 臨終定年」と書かれていた。あすは「敬老の日」。<99.09.14>

☆ 朝顔博士
        
 遅くなりましたと庭の朝顔がぽつんと一つ花をつけた。薄紫の小さな花だ。もう10年前にさかのぼる。家に来た同僚が10粒ほどの種子を持ってきた。三重の支局時代に知り合った朝顔博士からもらった珍種だという。       その年、蔓がない、花が二重、蔓が下向きに延びる、鮮やかな江戸紫、と4種の朝顔が育った。
 種子をとりわけた2年ほどは珍種が続いたが、ある年、種を取りおくれて翌年は混合咲きになってしまった。二重咲きが消え、蔓なし、蔓が下向きになる花がなくなった。「先祖帰り」がすすんでただの朝顔になってしまった。 ことしの薄紫には、かっての江戸紫の面影がちょっと残っているように思える。伊賀上野の朝顔博士もずっと前に亡くなって、種子も散逸してしまったと聞いた。

☆ 阿国の里で
 
 阿国を追って出雲に行ってきました。伝承の女性は、この国では縁結びの神に押されてひっそり陰をひそめていました。地元の女性の研究家は「ここは男性優先社会です。       元気な女性、阿国を余り持ち上げたくないんでしょうね」と笑った。日御碕の夕陽は鮮やかでした。<99.07.29>
  ☆ 評論家の死
      
   江藤淳氏が自殺した。2日前に本になった「妻と私」を読んだばかり。病床の妻との生活を「大きな滝つぼの手前でボートにのった2人」と書く、はかなさが漂う一文だった。       一人残され、電気、ガスなどの支払い伝票をくる作家。漱石の「狂気」を体現したのだろか。
      
       ☆ 高尾産の蛍
      
     東京・高尾山麓で羽化した蛍が、今夜はうちの庭の植え込みで光っています。知人の誘いで出かけた会席亭(写真)で,お土産にもらった3つ。この店の庭の流れで育った蛍だという。       ほのかな光に、蚊帳のなかで光っていた子供の頃の思い出が蘇ります。< 99.07.10>

       ☆ 羽黒三山の旅 
 
 梅雨空をにらみながら出羽三山に出かけた。芭蕉が魅せられたという羽黒山月山、湯殿山をながめ体験したかったからだ。2400段の羽黒山への石段ははなんとか登りきった。
開山前、だれもいない月山は荒れ模様。わき上がってくる雲の中、雨風が容赦ない。木道をはうようにして引き返しました。でも自然と山の神の霊気にちょっとふれた感じ。       地元羽黒町の吉田観光課長、俳人の高城金男さんの案内で、効率よく山をめぐることができたりました。おそらく単独だと羽黒だけの出羽三山巡礼にになったことだろう。もう一度、時間をかけたい山だった<99.06.24>。
 
☆ 逝った編集局同人

 ガンで亡くなった先輩記者のお別れ会に出席した。熱っぽく語りかけた元労組書記長、文字通り沈着冷静、紙面をつくってきた整理記者。東大で美学を専攻、一時は研究者を目指したという高知生まれの「いごっそ」。
20日前の酒の席で、「近頃 背中が痛くって」と笑っていたという。数日後、「転移性肝ガン」、それも末期ガンと診断され、20日後に67歳で亡くなった。病床でワープロを打ち、意識が混濁した中でやっぱり鉛筆を握っていたと聞いた。安らかに。 

  筋萎縮性側索硬化症で手も口も萎えた折笠美秋氏をふっと思い出した。彼もまた同じ編集局で鉛筆を握っていて倒れた。学生時代からの俳人。病床でワープロを打ち、やがて奥さんに口述筆記してもらい、声を失ってからは目と唇の動きを読みとってもらった。        病床の句は「俳句研究」に連載された。平成2年没。<99.6.18>
 
   生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き
   ととのえよ死出の衣は紡ぎたる 
                        美秋          
                  
☆ 近況 即拝見

       
 関西に住む娘の一家からメールが届いた。近くにある「播磨富士」に家族3人で登ったという報告だ。低い山だが足元が不安定な岩の山だった。
添えられた写真から、苦闘の末にたどり着いた頂上のさわやかさが伝わってきた。そんな日常がリアルタイムに送られるパソコンの効用を見直した。<99.6.13>

      ☆ 忘れ形見の結婚
      
  今は亡い友人のお嬢さんの結婚披露宴に出席した。花嫁の父は20年前に不慮の事故で亡くなった。まだ小学生だった 娘は、父の跡をつぐように1級建築士の資格も取った。    この日、新婦とお母さんの頬には白い涙があった。
 「スターターーが好きだったお父さんがいま号砲をならした。幸せに」とメッセージを書いた。この友人は、瀬田川河畔に住んでいたこともあってか 子供の頃からのボート好き。   現役を引退してからも、ボート協会の役員をやりながらスターターをつとめていた。< 99.6.5>


 ☆ 瀬戸をまたぐ明石大橋
       
  橋桁から見上げた明石海峡大橋は精巧に組み立てられた一大構造物でした。鑿で岩盤を刻んだ「青洞門」を見た目には、時と人間の知恵を改めて感じさせてくれました。<99.6.6>

 ☆ 猛暑の耶馬溪
      
  出張先の大分県は猛暑でした。蛍の里の山国町では「ことしはまだ寒いから蛍は見かけません」と地元のタクシー会社それでも山間で3つの光を見ました。紅葉名所の耶馬渓は、したたるような緑でした。
 泊まった山國屋はかっての文人の宿だそうです。泊められた大座敷の欄間や襖に老舗の貫禄がありました。