くもりのち晴

  鯰の見聞録

     
☆ 法然忌
 知り合いの彫刻家が増上寺に「阿弥陀三尊」を納めたというので出かけました。7年かけた力作、大広間に存在感がありました。折よくこの日は徳川家霊廟の特別公開日。驚いたのは 6代もの将軍が東京タワーの足下に眠っていたことです。「タワーもホテルも元は寺の境内、それも墓所でした」と案内の僧侶。あらためて時代を感じました。(080405)
☆ おかげさまで20万件

 3年ぶりの会津の旅。裏磐梯はまだ深い雪、ふもとの町もふかく沈んでいました。駅前にあった洒落た喫茶店も昨年、店じまい。駅前発のバスの路線、ダイヤも大幅に間引かれ、さらに客足が遠のいたようです。地元が期待をかけた自動車道。この開通は、地元の”過疎化”に拍車をかけることになったようです。こんな嘆き節、自動車道が縦断した淡路島でも聞きました。(080315)
☆ 王子江の作品展

上野で水墨画展をみてきました。在日中国画家、王子江の作品展。ひときわ目をひくのは100bもの画布に描かれた等身大の人の群れ。薬師寺に納められたのは僧たちの一群、銀座、NY、チベットで出会った人々の印象も精緻に描きこまれていました。 水墨と洋画の持ち味がみごとに融和したプロ作家の作品、それでいてどこか人なつっこい。この障壁画からは魂の歌が聞こえてくるようでした(080303)
☆ 江戸歴史散歩

向島界隈をめぐる江戸歴史散歩講座に参加しました。露伴や堀辰雄の旧居跡、百花園や墨堤を歩いて長命寺桜餅も味わいました。大震災と東京大空襲、かって2度の災禍に襲われた東京の下町。 狭く曲がった路地、やっと残った石塔や石碑だけが江戸の歴史を語りかけてくれるようでした。墨堤もさまがわりしていました。(071028)
☆ トキのいる島
40年ぶりの佐渡でした。青田をスイーとイワツバメが飛びます。露天風呂のヒサシでは親ツバメが雛たちにせっせと給餌していました。青田の向こうに海がみえる、昔 懐かしい風景が広がっていました。島ではこのところ渡り鳥が増えてきたそうです。 人工飼育のトキの放鳥に備えて 地元では無農薬 棚田造成などの環境づくりが進んでいるようです。 そんな地道な努力が実を結んできたということでしょうか。(070702)
☆ いぶし銀の業績
 東京も入梅です。多摩川沿いにある府中市のきょうどの森でも 紫陽花がとりどりの花をつけていました。ここでは常民学者宮本常一さんの足跡展が開かれてました。どこまでも自分の足で歩いて書いた膨大な著作、いぶし銀を見るおもいでした。「宮本学は私どもに遺された。それだけでも望外な幸運として、私どもはよろこばねばならない」(司馬遼太郎) (070607)
☆ なぜ いま トルコなの
 約2週間 トルコの旅に出てました。ご心配をおかけしました。現地は連日の晴れ、トルコブルーの海と空をながめて歩いて、ほんのすこし 「文明の十字路」を感じてきました。いまは花の季節、エーゲ海沿いの古代遺跡に ひっそり咲く草花にもひかれました。近々 写真をアップします。(070424)
☆ 冬の大和路
 瀬戸内海の明石で落日をみて 奈良では間近に仏像をながめてきました。冬ならではの ゆったりした旅でした。仏像や高い塔屋を見あげて あらためて古い時代の大きさ、おおらかさを感じました。ただやたらに立つ「世界文化遺産」の看板が興ざめでした。
(070216)
☆ 白川静の世界
 中国文学者の白川静氏が96歳で亡くなった。6年前、京都・桂のご自宅でお会いしました。「知識は全て疑うことから始まる。疑うことなくして本当の知識は得がたい。疑問を解き明かしていくなかで知的な世界が生まれるんです」と 淡々とした語録が取材メモに残っています。 「字統」「字訓」「字通」の漢字の大辞典3部作を刊行したばかり。建売住宅の三畳ほどの応接間、4万枚ちかいペン書きの「字通」の原稿が背の高さほどに積まれていました。「いま著作集のまとめをしてます。5年もかければできますよ」とこともなげに言う。04年 文化勲章受章。世間に媚びること無く漢字研究を貫いたほんものの学者でした。(061101)
☆ 惜しいノンフイクション作家
 「わたしで役にたつことがあればいつでもこの電話にー」と わが家の留守電に電話番号を残していたかっての会社の同僚が逝った。ノンフイクション作家の上之郷利昭さん。豪快にみえて細心 ものやわらかな語り口だが その切っ先は鋭い。でも このところかれの原稿をみることがなかった。講演で全国各地を飛び歩いていると聞いた。結局 携帯電話にはかけないままに終わった。http://homepage.mac.com/whitenoize_1/link/index.htm
l(060918)
☆ 富士の山じまい 吉田の火祭り
 大通りで78の大松明がいっせいに炎を上げていました。誘われて出かけた富士山麓の「吉田の火祭り」は、にほん三大奇祭のひとつ、鞍馬の火祭りの派手さはなく、ただ ただ火の粉を散らして夜空を焦がすだけ。外気17度、火勢で汗がにじむ。富士のお山じまいを告げる浅間神社の”送り火”だったのです。燃える松明は天にむかって夏の終わりを告げているようでした。(060827) 
☆ マイナスじゃないプラスです
  社会学者の鶴見和子さんが10年間の闘病を経て88歳で逝った。98年7月、療養先の伊豆高原にうかがった=写真。「今の私は半分死んで半分生きています」。はじめてのひとことでした。「老いること 病気になることはけっしてマイナスじゃない」。「病気にならなければ ひたすら走り続けていたでしょう」。 車椅子の生活で9巻の著作集をまとめ、娘時代に親しんだ短歌に心境を託した。なによりも 自身の「内発的発展論」を 老いの暮らしのなかで実証、「女書生」をつらぬき通した才女でした。(060808)
☆ 木曾・王滝村の旧御用林 
 梅雨明け、木曾の国有林をまちだの仲間たちと歩いてきました。伊勢神宮の神木を育てる原生林、一日2組 人数制限をうけてやっと入山できる秘境。こんな環境の中で大樹はまばら、意外でした。このヒノキの大樹は 激烈な生育競争で勝ち抜き、間引きをまぬがれてきた3−400年ものだそうです。木の習性とはいえ このエリートたちがなぜかさびしくみえました。(060804)
 
☆ 真夏の夜の夢
 きのう夜 日比谷公園でフラメンコをみました。小松原庸子スペイン舞踏団の「真夏の夜のフラメンコ」。暑いさなかに強烈な動きと音 昨年は敬遠しました。それが 意外に「さわやか」に楽しめました。動と静 白と赤 カッカとコツコツ 若い女性 目立つ中年男性・・・。夕風が涼しい座席で こんなキーワードをたぐっていました。(060728)

 ☆ ピアニストとの出会い
 梅雨が戻ってきました。曇りガラスの世界です。そんな霞の中でウグイスの声が響きます。栗の花のムーとする匂いがハナをつきます。きのう お会いしたのはスタニスラフ・ブーニンさんでした。19才でショパンピアノコンクールを制した天才ピアニスト。舞台をおりたピアニストはちょっと照れ屋の紳士でした。話の最後は「日本を終の棲家にしたい」。来週のサントリーホールでのプラハ放送響との競演が楽しみです。(060620)

☆ 友人がうち続ける能面
 きのう 面をうつ友人の能面展に出かけました。友人が飾った7面のうち5点は女面。さらっと見た感じだとそれほど違いがない。でも近づくと 彫りの深さで表情が変わる。口元をぐっとひきしめた面は妻女でした。重厚長大の鉄鋼業界で過ごしてきたこの友人、ここにきて たおやかな「幽玄」の世界がちょっと理解できるような気になったと笑う。(060615)

☆ 意地が生んだ異境の北斎館
 友人に誘われて北信濃を旅しました。江戸の浮世絵師 葛飾北斎の安住の地はこの信州・小布施でした。90年の生涯で、北斎がこの地に関わったのは晩年の5年間だけ。それがなぜー。時の流れに置き去りにされそうになった小さな町の「意地」と「知恵」が実をむすんだのです。”北斎サミット”もこの町でひらかれ、北斎はすっかり町の顔になっていました。(060528)

☆ シューベルトも歌っていた合唱団ういーん少年合唱団
 
 雨のきのう 初台で
ウイーン少年合唱団の公演を聴きました。25人とピアノ1台だけの素ぼくなステージ。モーツアルトの宗教曲もウインナーワルツも赤とんぼも 澄んでさわやかに響きました。 創立から508年、ボーイソプラノの「旬の音」を守り育んできた合唱団。素顔の美しい人にであったような気分でした。写真はウイーン少年合唱団を率いるイエッサー理事長、この人もかって歌う天使の一人でした。(060507)
☆ 火中の栗をひらう 
 暮れになってJRの脱線事故が起きた。ことしは足や住など生活基盤がゆさぶられた年でした。そのJR西日本の立て直しに高校時代の同級生が起用されるようです。学帽を目深くかぶったかっての秀才。
JR西日本の会長職は ずしりと重い役柄。事故の現場で 神妙に頭をたれる級友の姿だけはみたくない。(051230)
☆ ギリシャからの近況 
 近所のアキちゃんがギリシャの新国立劇場のこけら落としのオペラ公演に出演していました。
「魔笛」のクナーベ役。たまたまWEB検索をしていてブログをみつけました。 40日余の長期公演 その近況が現地から伝えられていました。そうだ ブログやHPにこんな使い方もあるのだ と教えられました。それにしてもあのアキちゃんがーhttp://www31.ocn.ne.jp/~alst/index.html
☆ いきいき動く動物たち
 先日の旅で旭山動物園に寄りました。新築の動物舎に手書きの看板が目立つ よくある動物園。でも違っていました。どの動物たちも毛艶がよくって 目がきらきらしていたのです。評判の秘密は みんなが動物たちにホンモノの愛情をそそいでいたことなんだと納得しました。オランウータン舎では母親が居眠り、代わって子ランウータンがひとり空中ブランコをたのしんでいました。
 写真の動物 それぞれに想像されたようですね。「物思いに耽る?いいえ一人はずれてお散歩? ひょっとすると家族のいない寂しいひとりもの?」 こんなメールもいただきました。じつはキングペンギンの子どもだったのです。群がるフンボルトペンギンをしりめに 「いまにボクだってー」 という小さな気概が聞こえてきそうです




☆ 東欧の崩壊と再生の現場を歩いた男
 また好漢がガンで逝った。仏文専攻だったが汚れ役が似合う男。モスクワ特派員を3度、マルコス政権崩壊の現場にも特派、「あらためて民衆のパワーを体感した」と興奮気味だった。大学では立花隆氏と同じ教室だったとか。しぶとく追究する姿に共通点があった。訃報は身内だけの葬儀の後に伝わってきた。
(051002)
☆  古戦場と「源流」の違い  

ひさしぶりに日比谷公園に行きました。デモや決起集会の取材で駆けたかってのわたしの古戦場。この日ヴァイオリニストの
前橋汀子さんにお会いしました。 小学生の頃 ここの公会堂で聴いたヴァイオリンの響きが心に残りいまの道を歩ませたということです。

後年スイスで師事した巨匠ヨゼフ・シゲテイとのはじめての 出逢いもこの公会堂だった。「私にとって日比谷は音楽人生の「源流」なのかもしれません」。  前橋さんは斉藤秀雄に教わり、レニングラード音楽院、ジュリアード音楽院で学んでカーネギーホールで演奏会デビューを果たした国際的なヴァイオリニスト。日比谷公園への思い  もちろん 比ぶべくもありません。(05.08.19)  


☆ さようなら 串田孫一先生

う20年前になります。串田さんとはじめてお会いする前に、頑固で厳しい人だ、と聞いていました。しかし 実際には気持ちのやさしい教養人だったのです。おそらくは 漢字の一文字にも妥協を許さないあの厳しさが、頑固にみえたのかもしれません。串田さんは 最後の文章家だったといまだに思っています。
 先年、串田さんから著作集をいただきました。旧漢字の字体にこだわり、装丁から紙の質にも注文をつけたようでした。「出版社には申し訳なかったんですが、回想記でもあるわけですから、その時代をきちんと残しておきたかったんです」。だからこそ自分にも厳しかったのです。「文章を書くのはつむじ曲がりが苦労をするために書いているようなものなんです。それは真剣勝負、楽をしては書けません」。いいかげんな新聞記者のわたしには耳の痛い話でした。
 串田さんは、東京外語大の哲学の教授でした。しかし本心は自然を書く随筆家、チェロを弾き、ラジオで1500回も音楽が話せる音楽家でもあったわけです。それに「洟をたらした神々」の吉野せいさんに陽をあてた編集者でした。父親は戦前の三菱銀行頭取、豊かさを蓄え、思索することを身に付けて成人されたようでした。
 退職のとき お手紙をいただきました。「不整脈に威張られて、すっかり失礼して仕舞いました。山本さんがおられなくなると**新聞は東京湾の向こう側へ行ってしまったような気がします。まだ2月、これからも寒さに震える日があるでしょう。呉々も元気におすごし下さい」。(05.07.09)  


☆  逆さマッターホルン
マッターホルン
 きのうは32.5度、真夏日でした。スイスに行ってきましたと ネットの友人から涼しげな写真が送られてきました。
一週間前の
マッターホルンの姿です。
 現地はさわやか、健脚のはずが さすが歩き疲れました とメールが添えられていました。うらやましい。
そこで この写真を拝借して、みなさんにもお裾分けすることにします。(6/26)

☆ ある映像作家の死

吉田元さん。自然と共生しながら生きてきたカメラマンでした。4月25日にガンで亡くなりました。遺言とうりに知らせることなく、家族とごく親しい仲間だけで秘蔵の酒を酌み交わして送ったようです。この人らしい「あいさつ」を再録しました。(05.06.22)

 私・吉田 元は平成17年4月25日 くたばりました。4月28日、自宅でごく近親者のみに送り出されました。通夜も坊主の読経もありません。いきなり棺に野の花を投げ込み、葬場へ直行です。今ごろは小さな骨壺の中でしょう。この上もなく暗く、いやな場所です。早々に瀬戸の来島海か頓田川河口(ふるさと)でも、あるいは八重山の海辺にでも ばらまいてもらう手はずです。地球が墓場になります。好きなときに世界中に出かけます。
 春のホオジロのさえずりに聴きいり、アルゼンチンのパンピエロ(季節風)を見たり、秋には皆さんの家の庭の片隅でコオロギを聴いているかもしれ ません、とにかく70余年の楽しい生涯でした。快い人たちーあなたのことですーに出会い、全く愉快でした。思い残すことがありません。素晴らしい一生です。ありがとう。それではー  元

☆ つかれました東北の旅

 桜の東北路を車で走りました。会津で義父の法要に出かけたのです。車の運転は苦手、「もっと乗らなきゃ、車がかわいそう」とディラーにハッパをかけられての旅でした。満開のヤマザクラに出会い、茅葺きの家が連なる
大内宿でちょっと昔にひたりました。桜も人もおしつけがましくないのがいい。とはいえ流れの速い高速道路では疲れました。(4/26)

☆ ひさしぶり高円寺という町

 「高円寺」は落ち着いた街だと思っていました。昔はそうだったからです。実際には にぎやかでいてひっそり、息づいてる町でした。この町でフラメンコの舞踏家
小松原庸子さんに会いました。常磐津の師匠宅に生まれ、日舞、古典バレエ、新劇を学んで、いまスペイン舞踏の第一人者。「踊ることが生きていること」といまも踊る。和洋の芸をみごとに咀嚼して花ひらいたこの女性は、高円寺に似合って見えました。(4/14)
☆ ユーザーの目線で28年

 神奈川テレビの「新車情報」が3日夜の1448回目の放送で終わる。
三本和彦氏の辛口批評が評判をよんだTV番組。企業や世論にも媚びず、つねにユーザーの目線を貫く、U局ならではの番組だった。「もうジジイの出番ではない」と自身で28年続いた放送に終止符をうった。いかにも彼らしい引き際だった。会社の先輩がまたひとり去った。(4/3)
☆ 挑戦するわか者たち

 親戚の若者が本をだした。「アメリカでプロになるースポーツ界で活躍する法」。大手運動具会社のアメリカ駐在で、大リーガーともつきあい、退職してスポーツ留学の斡旋業をはじめた。本はアメリカ体験と留学のノウハウを書いた。その転職時にいまどきの勇気に驚いたものだ。しかし待てよ、ホリエモンの例もある。しばらくこの若者の動きを見守ることにしよう。(3/15)
☆ 俳句と自然科学

庭の桜にツグミがとまりました。食虫をもとめてせっせと幹をついばみます。ヤマザクラノの花芽はまだ硬い、懸命なツグミの姿は春の到来を頼み込んでいるようにも思えます。このところ 野鳥観察がおもしろい。物理学者で俳人の
有馬朗人さんに「自然」を見ること、手を使うことの大切さを教わりました。「自然は美しい。その自然の美に学ぶのが俳句であり、自然科学なんです」。だそうです。


☆ 壁に向き合う ただの市民

 その昔、編集者としておつきあいしてきた
大下勝巳さんが4月から川崎市の「宮前区長」に新任すると聞いて驚いた。区長はどこでも市幹部の特設ポスト、指定都市では初めての民間人の起用だという。市民意識と感性を行政に持ち込んで欲しいということらしい、と彼からメールが届いた。とりあえずは厚い壁に立ち向かう彼に拍手をおくることにした。
(03/03)
☆ 変わらぬ七色の声


30年ぶりだろうか中村メイコさんにお会いした。不思議なことだが容姿も声もあのころとかわらない。南麻布のネイルサロンで「わたしのオアシス」を聞いた。2歳の時から芸能界につかってきた「スタジオっ子」。だから大自然や田舎では落ち着かない。ほっと一息入れられるのは、東京の23区のそれもちょっと騒がしい舞台やスタジオだという。そんな話がキザにきこえない本物の芸能人でした。(05/01/31)

☆ 友人が著した一冊

 記者仲間の
石山茂利夫さんから著書「国語辞書事件簿」(草思社)が送られてきた。定年後に取材を重ねて書いた読み物、面白く読んだ。現役時代から取材熱心な記者だった。遊軍記者時代に「国語」の連載に関わってずっと興味を持ち続けた。「記者生活で学んだ集大成」というひと言が痛く刺さった。      
 高田馬場の立ち飲み屋で

 立ち飲み酒場でのインタビューは味があった。村の暮らしや祭りを撮る写真家
芳賀日出男さん。飲むほどに思い出話がひろがった。海外取材も101カ国に及ぶ。でも心に残るのは奥三河に伝える「花祭り」。信仰と芸能がみごとに調和した祭りだという。話しながらまたジョッキがひとつ空いた。座りたくなったら酒は限界、酔っぱらいがいないのが立ち飲みのいいところ.。83歳は、オヤジさんにエールをおくって夜にきえた。取材のメモ帳は白紙のままでした。(04.11.10)
☆ 「三本節」 健在でした

  けさ 目を覚ましたらヒット件数が8万件を超えてました。きのうは東京・神楽坂を歩きながら ひさびさ 「三本節」に聞きいりました。TV「新車情報」の
三本和彦さん、歯に衣をきせない辛口の評論家。「だってヤマちゃん世の中 間違ってるよ」とはじまると話はとめどない。車社会を悪くしているのは官僚や官僚上がりだ、と歯をむく。三菱車の欠陥隠しでは並み居る評論家氏は沈黙、TVや新聞でコメントしたのは彼だけだった。「日本は車を開発する文明はあるが、使いこなす文化がない」 (「クルマからみる日本社会」岩波新書)と書いた。かわらぬ好漢でした。(040911)

 「蚊の時間」って

 ギリシャ五輪がはじまった。花を撮ろうと庭にでたら ヤブ蚊の襲撃にあった。乾いた庭の片隅でしたたかに生きていた。先日、お会いした 「ゾウの時間ネズミの時間」の著者、
本川達雄東京工大教授なら「蚊にも蚊の時間があります。そこを考えなきゃ」と云われそうです。それにしても痒い。(8/14)

☆ 元気に輝く 88歳

 世田谷美術館で彫刻家の未亡人にお会いしました。現代彫刻の世界で光る舟越桂、直木兄弟を育てた
舟越道子さん88歳、元気に輝いていました。ご主人は長崎の26聖人像を刻んだ舟越保武さん(元東京芸大名誉教授)。若い頃の貧しい暮らしも聞きました。好きな詩と絵をなげうってずっと家族を支えつづけてきたのです。「ヤスタケは本当によく働いてくれました」 短い言葉に気持ちがにじんでました。かって女子美で学び、文化学院で佐藤春夫から詩を学んだといいます。いただいた句文集には洗練された言葉がならんでいました(040615)
☆ コムロさんの心の

フォーク歌手の
小室等さんはおだやかな紳士でした。多摩美大で彫刻を専攻したはずが学生時代はフォーク漬け。音楽に”手ざわり”を感じるようになって美術に強い関心がでてきたと話します。小室さんが作曲したTVドラマ「蝉時雨」  ちょっとおしゃれな曲も広いアートの世界が土壌になっているようでした。
「フォーク」はプロテストソングといわれます。「本当のプロテストソングはラブソングだと思うんです」。帰宅して「出発の歌」を聴きました。写真は小室さんのHPから借用しました。話が興味深くって撮影をわすれていました。(040514)


☆ 自家本「木の芽の味覚」

このHPの「野草を摘む」にも登場している野草研究家の
福島誠一さんから自著の自家製本「木の芽の味覚」をいただいた。木の芽をめぐるエッセイに版画家の自摺りの木版4葉がそえられた和綴じの新書版。歩いて探して食べてみた体験を書いたエッセイ集だ。フクちゃんはかっての同僚、仕事で手がけた野草摘みが、みごとに波長に合って、いまや野草をうまく食べることが出来る第一人者。定年後も執筆、カルチャーセンターの講師と忙しい。生き生きと活動している様子が本からも伝わってきた。かれはこんな生活を仕掛けたわけでもない、時代にあった生き方は向こうからやってきたのだ。
☆ 荻窪で聴くアンデスの風

 はるかアンデスから吹く風を感じさせてくれるフォルクローレは好きなんです。きのうは、ぜいたくにも、ギターの名手の演奏をひとり聴かせてもらいました。ユパンギのただ一人の弟子ソンコ・マージュさんに西荻窪の自宅でお会いした。話の途中で、「弾くというのはこういうことなんですよ」と、いきなり弾き始めたのです。「鳥の歌」に続いてフォルクローレの名曲「インディオの道」、追われて石ころの道をたどるインデイオの悲しみがじわりと伝わってきた。(040413)
☆ さいごの碩学 白川静

 白川静さんの「常用字解」に、はまりました。93歳で現役の漢字学者の漢字基礎字典。ひとつの漢字を読み解くと何千年もの前の風習までが透けて見える面白さ。エジプトの象形文字よりドラマテックにみえる。「中国行ってません。行ったって3000年前が見れませんからね」と話した白川さん。狭い応接の片隅に背の高さほど積み上げられた手書きの原稿を思い出します。梅原猛さんが一目も二目もおく碩学でした。(040408)
☆ いまもダンディな俳優さん

 出演した映画は180本、ほとんどを主役で通した俳優さんに会いしました。かっての二枚目スターの池部良さんです。書いたエッセイがもう30冊、軽妙でユーモアがあふれるエッセイは楽しく読める。傘寿が過ぎたいまも、とてもダンディでした。「近くのラーメン屋に入りたくっても一人だと気後れしましてね」。そんな”こだわり”が若さの秘訣なんだろうか。麻布のレストランで、古い映画の話にひたりました。(040317)

☆ 「砂の女」のムラで<020510>
ひょんなことで教室で小学生に話をすることになりました。山形県の庄内空港に近い浜中小学校の5,6年生の子どもたち。取材のアポイントをとるのに連絡した地元の公民館からの依頼での課外授業でした。大学の教壇にたったことはあっても小学生相手は初めてだったのです。
 小学生の見る目は真剣でした。「砂の女」を話すうちにいつか「ふるさと」を見つめる目について話していました。「東京に住んでていいことはなに」と質問がむけられました。「そうですね、手軽に文化に接触できることかなー」と答えて、その文化ってなんなの、と自問していました。そう、この砂の町には生きた文化があるんです。都会に住む者のおごりじゃないかとちょっと恥ずかしくなりました。1時間はあっというまに過ぎていました。
☆ やはり「娑婆」がい

  池上本門寺の酒井貫主にお会いした。軽妙なエッセイも書く日蓮宗の高僧。寺の応接間に「極楽を保証されても娑婆がいい」、相田みつおさんの言葉が掲げられていた。貫主さんの好きなひとことだという。来世に安楽を求めるのが信仰の形と考えていただけに、「娑婆がいい」というひとことが心に響いた。「わたしにとってはこの言葉が法華経の神髄だと思うんです。学者先生からはとんでもないといわれそうですがねー」と楽しそうに笑った。 この日、境内の広場ではクレーン車の作業音が響いていた。30日に開かれる姫神のライブコンサートの舞台作りだった。帰途 ガンで入院した友人を見舞った。(8/28)
☆ 国語教師の定年記念<020329>

この3月に定年を迎えた知人から手づくりの詩歌集が送られてきた。定年記念に自作の詩や歌を自費出版したものだろうと思いながらページをくった。ところがちょっと違う。万葉集から芭蕉、宮沢賢治、パスカル、漢詩までが収載された「玉手箱」でした。

 大学新聞時代の後輩にあたる彼女は高校の国語教師。大阪と東京で38年間勤め、その教員生活の中で出会い、感動した詩歌や文をノートに書き留めていたのです。「自分の38年間を記念するものがないかーふと思いついたのが、心にしみる詩歌の数々を一つにまとめることでした」。教わりながらパソコンで打ってみたということです。

 表紙には「
私撰愛唱詩歌集」とあった。一つ一つの断片もこうして分類、編集されると鈍く光って見えてきます。その一編一句は教室のにおいもする懐かしいものでした。一つの区切りに、こんなやり方もあったんだとつい拍手をおくりたくなりました。
☆ みすずさんが住んだ町<020127>

山口県の長門市仙崎に行って来ました。日本海に面した小さな港町です。内海にそった市街地は家並みが低い古い町でした。
「仙崎というところに行って来た」と知り合いに話すと意外や意外、みなさんご存じなんです。「あ あの仙崎かまぼこの町ですね」「金子みすずのうまれたところだよね」という具合です。驚いたのは「日本を初めてみたのは仙崎でした」と隣人はいいます。敗戦直後、満州からの引き揚げで上陸したのがここだったというのです。十代の少女にとってはいまも忘れられない地だったんです。にわかに戦後が蘇ってきました。(写真は仙崎の外海)
 ガラスのない学校<01.09.27>

 巨人の長島監督が今期限りで引退です。同年輩だけにちょっと残念。まあ晩節を汚さずに引退、よかったね、と拍手を送りたい気持。わたしもこれでアンチ巨人に徹しきれます。

 かってわたしも野球少年でした。小学生の頃には、石を布でぐるぐる巻きにしたボール、布団綿をくるんでつくった手製のグローブ、空き地で毎日のように三角ベースをやっていました。戦後直ぐの瀬戸内少年野球団の頃です。月刊誌の
「野球少年」は東京から野球情報を運んでくれました。付録の野球ゲームでルールを学びました。テレビの無い時代、翌日、学校では雑誌から得た情報が話題になりました。

 姫路の城内球場にオドール監督が率いる
サンフランシスコシールズがやってきました。川上、青田、藤村ら日本の選手たちもきたのです。夢の球宴です。外野スタンドの後方が私たちの中学校の校舎、掃除を理由に居残り、窓からこっそり見物しました。この学校の生徒だったことに感謝したものです。しかしも場外ホームランがでるたびに教室の窓ガラスが割れるのです。ガラスは貴重品、先生の顔がその都度、ゆがんで青ざめていたのを思い出します。長島監督もこんな時代をくぐりぬけて名選手に育ったんでしょう。

 ある国宝の怪

 500円切手の図柄をご存じですか。カット目をむいた
伐折羅(バサラ)大将なんです。奈良の新薬師寺にある奈良時代の十二神像の一つなんです。さきに名作の舞台の「古寺巡礼A」で紹介したのですが、新聞に掲載された後に何人もの読者の方から、500円切手は「迷企羅大将」のはずだ、と厳しい指摘がありました。

 一般にバサラと呼ばれているのですが、国宝の指定名はメキラになっているんです。国宝名が正確で、他は通称名と思われがちですがこの場合は逆のようです。調べてみると明治時代に国宝指定調査のさいに担当官が標識を見誤り誤認してしまったのです。文化庁もこれを認めているのですが、訂正にはそれなりの理由付けが必要なので、面倒だとそのままになっているのです。お上のお墨付きにもこんなこともあるのです。<01.08.25> 



☆ 現代史作家の死 

  現代史の作家、児島襄さんが3月27日に亡くなった。担当編集者として急に思い出の記を頼まれ夕刊に急いで送った。

 児島さんは、軍隊の経験のない戦記作家だった。だから膨大な資料をてってい的に読み解いた。ワシントンの公文書館にもなんどもこもった。「読んでいくうちに想像が広がっていくんだよ」といった。「講和条約」に次いで「ラストボロフ事件」を手がけ、「ジラード事件」の連載は後すこしのところで中断した。
 
児島さんは三年前、自宅で脳梗塞で倒れた。順天堂大学病院で治療をうけ、伊東のリハビリ病院で療養、車椅子で動けるようになった。「わたしは三島を書きたいんだ。快復したら連載するよ。資料は集めてあるんだ」。戦後史検証シリーズの中で、いかにも唐突な感じだった。三島の激しい生き方に自分をかさねたかったのだろうか。
 脳梗塞の病床でもタバコだけは手ばなさなかった。重病の床で医師に退院をせがんだ。「おれの読者がまっているんだ」と口癖のようにいった。この手のふるえがなければな、と嘆いた。好きな大相撲のテレビ画面はつけっぱなしだったが、見る目はうつろだった。「おれは編集者の顔をみながら書くんだ」。ファックスや郵送での出稿を拒んだ。編集者には苦手な作家だった。ある日、「新潟からいい酒がはいったんだ」と自宅に招かれた。竹の柄杓で酒をついでもらった。そんな優しさもあった。<01.03.28> 
☆ 旭川にて
 三浦綾子さんの「石狩峠」をたずねて北海道・旭川に行って来ました。いまどき珍しい生真面目な作品に惹かれたからです。ご主人の
三浦光世さんにもお会いしました。病身の綾子さんの口述を筆記、多くの作品を仕上げてきた人です。だから「いまだにそこに綾子がいるようです」となんどもいいます。
 遺骨はまだ居間に置いてありました。2階の書斎はそのままでした。「ここに綾子が座って、私はここでー」。書斎の窓からはライラックの花が見えました。ご主人はほんとうにおだやかな人でした。作品の底流をみた思いでした。 旅の前にインターネットで「三浦綾子」を検索しました。ホームページの多さに驚きました。新潮文庫の「塩狩峠」は65刷、280万冊文句なしのベストセラーですと、新潮社の話。
<00.06.03>
☆ 47歳の新米獣医

 獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。

 
獣医をめざしたきっかけは、横浜の公園で拾ってきた老犬を飼育するようになってからだ。野鳥や野良犬の命をはぐくむ獣医の姿に打たれたらしい。まだ卵、3年間のインターンを経て一人前の獣医になるという。児童図書「すずめが手にのった」(偕成社)は7年前に彼女が書いた本だ。
 獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。<00.03.29>

 
☆ 無着ワールド
 「やまびこ学校」の無着成恭さんは、成田空港近くの禅寺の住職さんでした。東北なまりの語り口がとっても懐かしく、いつのまにか無着ワールドにひきこまれていました。

 いまカンボジャでのボランティア活動に力を注いでいるようです。学校や図書館づくりをしてきましたが、これからは形のない先生の養成などをやっていくとのことです。ハコづくりには募金も支援も集まるのですが、人づくりなどの地味な仕事はそうはいかないようです。これからは無着さんの本当の心が問われそうです。本堂のふすま絵は原爆の絵の丸木位里、俊夫妻の手によるものでした。桂林を描いた水墨画に魅せられました。<00.01.27>
☆小説「伊豆の踊子」って
 暮れに大急ぎで伊豆の湯が島に行って来ました。川端康成が「伊豆の踊子」を書いた湯の町です。ちょうどシーズンオフ、町はひっそりしてました。「これが通常ですよ」と町の人は言います。
 昨年は川端生誕100年祭だったのですが、盛り上がったのは外国からの観光客だったそうです。ノーベル賞作家のカワバタの文学のふる里ということでやってきたのです。それもインターネット経由でこの町を知ったと言います。ところが日本の若者は、踊り子も川端康成もなじみがないようです。わたしもこの町で、興味をもったのは井上靖の「しろばんば」でした。それでも「伊豆の踊子」に誘われるように旧天城トンネル(写真)を車でくぐりぬけました。<00.01.13>

☆ 自戒の一冊

演劇評論の尾崎宏次さんの訃報がのっていました。戦前の築地小劇場時代から新劇を中心に評論活動を続けてきた人です。評論も新聞の劇評をちょっとみる程度、会社の大先輩ですが会ったこともありません。

 学生時代にカッパブックスで尾崎さんが書いた「パッカードに乗った森の石松」を読みました。社旗をはためかせた外車を乗り回し、威勢良く走りまわる新聞記者、だけど外からみると、なんにも分かっちゃいない、調子ものの「森の石松」なんだよ、と自嘲気味に書いていました。新聞記者を目指していた私にとっては自戒の一冊でした。大事にしていたその本はなくなってしまいました。いまも古本屋で探し続けています
<99.11.16>.

☆ セザンヌ展

横浜美術館の「
セザンヌ展」にいってきました。うすらさむい金曜日だというのに会場は混んでいました。やはり日本人好みの画家なんですね。作品はどこかで見たような懐かしさを覚えました。安井曽太郎や白樺の人たちの絵でした。セザンヌの日本絵画への影響を改めて。意外に淡い色調にほっと安らぎを感じます。もう一度、ゆっくりみてみたいと思っています。<99.11.12>
☆<99.10.30>

 久しぶりの
神戸でした。ビルが新しく新開地の風情でした。それががんばる姿だったんです。メリケン波止場には震災の跡(写真)を残していました。それをみて改めて地震のすごさを体感しました。

 楠本神戸市国際部長に案内してもらいました。もらった名刺は「復興局」とありました。その復興は。 神戸港の利用はなんとか震災前の8割までは戻したんですが、残り2割はなかなか戻りそうもないといいます。震災前、15あった領事館は、いまは韓国、ペルーの2館だけ。震災を機に大坂に移ってそのままだという。震災の後遺症は深刻でした。

99.10.24
 友人の息子さんの結婚披露宴に列席したら同じテーブルに
落ち着かない親父さんがいた。30分置きぐらいに席をたってロビーで電話をかけている。もらった名刺には、「丸山エンタープライス社長」とあった。この日はプロゴルファーの息子の優勝をかけての一戦。その途中経過が気がかりだったとわかった。
 ゴルフには関心がないが、翌日みたスポーツ面に獲得賞金2300万円とあった、なるほど、金の卵というのはこういうことなのかな、と変に納得していた。「そうじゃない、負け続け、再起の一戦だったので心配だったのだ」とゴルフ好きの同僚が教えてくれた。

99.10.01
 福島県の
いわきに行ってきました。かっての常磐炭坑の町という印象しかない町でしたが、いってみると海と山に恵まれたところでした。蛙を詩に読み、お人好しの草野心平さんのふる里だったのです。山にある文学館で展示の詩を読み、ふっと見上げると、なだらかな阿武隈が光って見えました。塩屋崎灯台からみた浜辺は白い波頭がみえまいた。


☆ 生涯修行 松原さん

 きょうは穏やかな老人に会った。禅僧で92歳の
松原泰道さん。名古屋から戻ったばかりなんです、とにこやかに迎えて下さった。
「今日は暑いですね。さあ上着をとって気楽にしてください」と気遣われる。かくしゃくと言うのはこの人をいうのだろうか。こちらの話をメモしながら確かめる。毎週、カルチャーセンターの講師を勤め、いまも執筆活動に忙しい。いただいた近著には「生涯修行 臨終定年」と書かれていた。あすは「敬老の日」。99.09.14

<99.08.26>
 遅くなりましたと庭の朝顔がぽつんと一つ花をつけた。薄紫の小さな花だ。もう10年前にさかのぼる。家に来た同僚が10粒ほどの種子を持ってきた。三重の支局時代に知り合った
朝顔博士からもらった珍種だという。その年、蔓がない、花が二重、蔓が下向きに延びる、鮮やかな江戸紫、と4種の朝顔が育った。

 種子をとりわけた2年ほどは珍種が続いたが、ある年、種を取りおくれて翌年は混合咲きになってしまった。二重咲きが消え、蔓なし、蔓が下向きになる花がなくなった。「先祖帰り」がすすんでただの朝顔になってしまった。
ことしの薄紫には、かっての江戸紫の面影がちょっと残っているように思える。伊賀上野の朝顔博士もずっと前に亡くなって、種子も散逸してしまったと聞いた。

<99.07.29>
 阿国を追って
出雲に行ってきました。伝承の女性は、この国では縁結びの神に押されてひっそり陰をひそめていました。地元の女性の研究家は「ここは男性優先社会です。元気な女性、阿国を余り持ち上げたくないんでしょうね」と笑った。日御碕の夕陽は鮮やかでした
            
 <99.07.22>                      
 江藤淳氏が自殺した。2日前に本になった
「妻と私」を読んだばかり。病床の妻との生活を「大きな滝つぼの手前でボートにのった2人」と書く、はかなさが漂う一文だった。一人残され、電気、ガスなどの支払い伝票をくる作家。漱石の「狂気」を体現したのだろか。
< 99.07.10>
東京・高尾山麓で羽化した
が、今夜はうちの庭の植え込みで光っています。知人の誘いで出かけた会席亭(写真)で,お土産にもらった3つ。この店の庭の流れで育った蛍だという。ほのかな光に、蚊帳のなかで光っていた子供の頃の思い出が蘇ります
             

<99.06.24>
梅雨空をにらみながら
出羽三山に出かけた。芭蕉が魅せられたという羽黒山月山、湯殿山をながめ体験したかったからだ。2400段の羽黒山への石段ははなんとか登りきった。
開山前、だれもいない月山は荒れ模様。わき上がってくる雲の中、雨風が容赦ない。木道をはうようにして引き返しました。でも自然と山の神の霊気にちょっとふれた感じ。地元羽黒町の吉田観光課長、俳人の高城金男さんの案内で、効率よく山をめぐることができたりました。おそらく単独だと羽黒だけの出羽三山巡礼にになったことだろう。もう一度、時間をかけたい山だった。
     

☆ 逝った編集局同人

 ガンで亡くなった先輩記者のお別れ会に出席した。熱っぽく語りかけた元労組書記長、文字通り沈着冷静、紙面をつくってきた整理記者。東大で美学を専攻、一時は研究者を目指したという高知生まれの「いごっそ」。
20日前の酒の席で、「近頃 背中が痛くって」と笑っていたという。数日後、「転移性肝ガン」、それも末期ガンと診断され、20日後に67歳で亡くなった。病床でワープロを打ち、意識が混濁した中でやっぱり鉛筆を握っていたと聞いた。安らかに。 

 筋萎縮性側索硬化症で手も口も萎えた
折笠美秋氏をふっと思い出した。彼もまた同じ編集局で鉛筆を握っていて倒れた。学生時代からの俳人。病床でワープロを打ち、やがて奥さんに口述筆記してもらい、声を失ってからは目と唇の動きを読みとってもらった。病床の句は「俳句研究」に連載された。平成2年没。
 
   生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き
   ととのえよ死出の衣は紡ぎたる 
                        美秋
          <99.6.18>
                   

☆ 近況 即拝見

 関西に住む娘の一家からメールが届いた。近くにある「
播磨富士」に家族3人で登ったという報告だ。低い山だが足元が不安定な岩の山だった。
添えられた写真から、苦闘の末にたどり着いた頂上のさわやかさが伝わってきた。そんな日常がリアルタイムに送られるパソコンの効用を見直した。<99.6.13>
                   
99.6.5> 
 友人のお嬢さんの
結婚披露宴に出席。父は20年前に不慮の事故で亡くなった。まだ小学生だった 娘は、父の跡をつぐように1級建築士の資格も取った。この日、新婦とお母さんの頬には白い涙があった。
 「スターターーが好きだったお父さんがいま号砲をならした。幸せに」とメッセージを書いた。この友人は、瀬田川河畔が住まいということもあってか子供の頃からのボート好き。現役を引退してもボート協会の役員をやりながらスターターをつとめていた。

<99.6.6>
 下から見上げた明石海峡大橋は精巧に組み立てられた一大構造物でした。鑿で岩盤を刻んだ「
青洞門」を見た目には時と人間の知恵を改めて感じさせてくれました。

 <99.6,1>   
                                                   
  出張先の大分県は猛暑でした。蛍の里の山国町では「ことしはまだ寒いから蛍は見かけません」と地元のタクシー会社それでも山間で3つの光を見ました。紅葉名所の耶馬渓は、したたるような緑でした。
 泊まった山國屋はかっての文人の宿だそうです。泊められた大座敷の欄間や襖に老舗の貫禄がありました。

     

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☆ 出会いのおもしろさ

 きょうは めずらしく歌曲を聞いています。
佐藤しのぶさんのコレクションCDです。先日 インタビューして とっても親しみ深いプリマドンナという印象を得ました。オペラとは縁遠かったのですが、来月のソフイア歌劇場の「オテロ」を見ることになって、にわか勉強です。眠くならなければいいがと案じています。 (051110)
 この暮れはめずらしくクラッシックにエンがあります。ショパンフエスティバルに続いて昨夜は上野でオペラの「オテロ」でした。ソフイアの名歌手たちとは一歩もひけをとらない佐藤しのぶさん。陰謀と愛憎が渦巻く中 無垢で誠実なデズデモナ役をみごとに演じてました。舞台女優の貫禄も。居眠ることもなく約3時間 舞台にくぎづけでした。この日の座席は 東京文化会館2階1列11でした。