ひょんなことで教室で小学生に話をすることになりました。山形県の庄内空港に近い浜中小学校の5,6年生の子どもたち。取材のアポイントをとるのに連絡した地元の公民館からの依頼での課外授業でした。大学の教壇にたったことはあっても小学生相手は初めてだったのです。

小学生の見る目は真剣でした。「砂の女」を話すうちにいつか「ふるさと」を見つめる目について話していました。「東京に住んでていいことはなに」と質問がむけられました。「そうですね、手軽に文化に接触できることかなー」と答えて、その文化ってなんなの、と自問していました。
そう、この砂の町には生きた文化があるんです。都会に住む者のおごりじゃないかとちょっと恥ずかしくなりました。1時間はあっというまに過ぎていました。
☆ やはり「娑婆」がいい>
池上本門寺の
酒井貫主にお会いした。軽妙なエッセイも書く日蓮宗の高僧。寺の応接間に「極楽を保証されても娑婆がいい」、相田みつおさんの言葉が掲げられていた。貫主さんの好きなひとことだという。来世に安楽を求めるのが信仰の形と考えていただけに、「娑婆がいい」というひとことが心に響いた。
「わたしにとってはこの言葉が法華経の神髄だと思うんです。学者先生からはとんでもないといわれそうですがねー」と楽しそうに笑った。 この日、境内の広場ではクレーン車の作業音が響いていた。30日に開かれる姫神のライブコンサートの舞台作りだった。帰途 ガンで入院した友人を見舞った。(8/28)
☆ 国語教師の定年記念
この3月に定年を迎えた知人から手づくりの詩歌集が送られてきた。定年記念に自作の詩や歌を自費出版したものだろうと思いながらページをくった。ところがちょっと違う。万葉集から芭蕉、宮沢賢治、パスカル、漢詩までが収載された「玉手箱」でした。
大学新聞時代の後輩にあたる彼女は高校の国語教師。大阪と東京で38年間勤め、その教員生活の中で出会い、感動した詩歌や文をノートに書き留めていたのです。「自分の38年間を記念するものがないかーふと思いついたのが、心にしみる詩歌の数々を一つにまとめることでした」。教わりながらパソコンで打ってみたということです。
表紙には「私撰愛唱詩歌集」とあった。一つ一つの断片もこうして分類、編集されると鈍く光って見えてきます。その一編一句は教室のにおいもする懐かしいものでした。一つの区切りに、こんなやり方もあったんだとつい拍手をおくりたくなりました。
☆ みすずさんが住んだ町

山口県の長門市仙崎に行って来ました。日本海に面した小さな港町です。内海にそった市街地は家並みが低い古い町でした。
「仙崎というところに行って来た」と知り合いに話すと意外や意外、みなさんご存じなんです。「あ あの仙崎かまぼこの町ですね」「
金子みすずのうまれたところだよね」という具合です。驚いたのは「日本を初めてみたのは仙崎でした」と隣人はいいます。 敗戦直後、満州からの引き揚げで上陸したのがここだったというのです。十代の少女にとってはいまも忘れられない地だったんです。にわかに戦後が蘇ってきました。(写真は仙崎の外海)
☆ ガラスのない学校
巨人の長島監督が今期限りで引退です。同年輩だけにちょっと残念。まあ晩節を汚さずに引退、よかったね、と拍手を送りたい気持。わたしもこれでアンチ巨人に徹しきれます。
かってわたしも野球少年でした。小学生の頃には、石を布でぐるぐる巻きにしたボール、布団綿をくるんでつくった手製のグローブ、空き地で毎日のように三角ベースをやっていました。戦後直ぐの瀬戸内少年野球団の頃です。月刊誌の「野球少年」は東京から野球情報を運んでくれました。付録の野球ゲームでルールを学びました。テレビの無い時代、翌日、学校では雑誌から得た情報が話題になりました。
姫路の城内球場にオドール監督が率いるサンフランシスコシールズがやってきました。川上、青田、藤村ら日本の選手たちもきたのです。夢の球宴です。外野スタンドの後方が私たちの中学校の校舎、掃除を理由に居残り、窓からこっそり見物しました。この学校の生徒だったことに感謝したものです。
しかしも場外ホームランがでるたびに教室の窓ガラスが割れるのです。ガラスは貴重品、先生の顔がその都度、ゆがんで青ざめていたのを思い出します。長島監督もこんな時代をくぐりぬけて名選手に育ったんでしょう。
☆ ある国宝の怪
500円切手の図柄をご存じですか。カット目をむいた伐折羅(バサラ)大将なんです。奈良の新薬師寺にある奈良時代の十二神像の一つなんです。さきに名作の舞台の「
古寺巡礼A」で紹介したのですが、新聞に掲載された後に何人もの読者の方から、500円切手は「迷企羅大将」のはずだ、と厳しい指摘がありました。

一般にバサラと呼ばれているのですが、国宝の指定名はメキラになっているんです。国宝名が正確で、他は通称名と思われがちですがこの場合は逆のようです。調べてみると明治時代に国宝指定調査のさいに担当官が標識を見誤り誤認してしまったのです。文化庁もこれを認めているのですが、訂正にはそれなりの理由付けが必要なので、
面倒だとそのままになっているのです。お上のお墨付きにもこんなこともあるのです。(010825)
☆ 現代史作家の死
児島襄さんが3月27日に亡くなった。担当編集者として急に思い出の記を頼まれ夕刊に急いで送った。
児島さんは、軍隊の経験のない戦記作家だった。だから膨大な資料をてってい的に読み解いた。ワシントンの公文書館にもなんどもこもった。「読んでいくうちに想像が広がっていくんだよ」といった。「講和条約」に次いで「ラストボロフ事件」を手がけ、「ジラード事件」の連載は後すこしのところで中断した。
児島さんは三年前、自宅で脳梗塞で倒れた。順天堂大学病院で治療をうけ、伊東のリハビリ病院で療養、車椅子で動けるようになった。「わたしは三島を書きたいんだ。快復したら連載するよ。資料は集めてあるんだ」。戦後史検証シリーズの中で、いかにも唐突な感じだった。三島の激しい生き方に自分をかさねたかったのだろうか。
脳梗塞の病床でもタバコだけは手ばなさなかった。重病の床で医師に退院をせがんだ。「おれの読者がまっているんだ」と口癖のようにいった。この手のふるえがなければな、と嘆いた。好きな大相撲のテレビ画面はつけっぱなしだったが、見る目はうつろだった。「おれは編集者の顔をみながら書くんだ」。
ファックスや郵送での出稿を拒んだ。編集者には苦手な作家だった。ある日、「新潟からいい酒がはいったんだ」と自宅に招かれた。竹の柄杓で酒をついでもらった。そんな優しさもあった。(010328)
☆ 旭川にて
三浦綾子さんの「石狩峠」をたずねて北海道・旭川に行って来ました。いまどき珍しい生真面目な作品に惹かれたからです。ご主人の三浦光世さんにもお会いしました。病身の綾子さんの口述を筆記、
多くの作品を仕上げてきた人です。だから「いまだにそこに綾子がいるようです」となんどもいいます。
遺骨はまだ居間に置いてありました。2階の書斎はそのままでした。「ここに綾子が座って、私はここでー」。書斎の窓からはライラックの花が見えました。ご主人はほんとうにおだやかな人でした。作品の底流をみた思いでした。 旅の前にインターネットで「三浦綾子」を検索しました。ホームページの多さに驚きました。
新潮文庫の「塩狩峠」は65刷、280万冊文句なしのベストセラーですと、新潮社の話。
☆ 47歳の新米獣医
獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。
獣医をめざしたきっかけは、横浜の公園で拾ってきた老犬を飼育するようになってからだ。野鳥や野良犬の命をはぐくむ獣医の姿に打たれたらしい。まだ卵、3年間のインターンを経て一人前の獣医になるという。児童図書「すずめが手にのった」(偕成社)は7年前に彼女が書いた本だ。
獣医をめざしていた記者仲間の奥さんが我が家にやってきた。「やっと卒業、国家試験もパスしました」。快挙というのはこんな事を言うのかなと思う。
47歳の彼女は6年前、麻布大(旧麻布獣医大)を受験、合格した。現役の学生たちにまじってやってきた。細い身体に重い鞄がくいこんで、との悩みも聞いた。
☆無着ワールド
「やまびこ学校」の
無着成恭さんは、成田空港近くの禅寺の住職さんでした。東北なまりの語り口がとっても懐かしく、いつのまにか無着ワールドにひきこまれていました。
いまカンボジャでのボランティア活動に力を注いでいるようです。学校や図書館づくりをしてきましたが、これからは形のない先生の養成などをやっていくとのことです。ハコづくりには募金も支援も集まるのですが、人づくりなどの地味な仕事はそうはいかないようです。
これからは無着さんの本当の心が問われそうです。本堂のふすま絵は原爆の絵の丸木位里、俊夫妻の手によるものでした。桂林を描いた水墨画に魅せられました。
☆小説「伊豆の踊子」って

暮れに大急ぎで伊豆の湯が島に行って来ました。川端康成が「伊豆の踊子」を書いた湯の町です。ちょうどシーズンオフ、町はひっそりしてました。「これが通常ですよ」と町の人は言います。
昨年は川端生誕100年祭だったのですが、盛り上がったのは外国からの観光客だったそうです。ノーベル賞作家のカワバタの文学のふる里ということでやってきたのです。それもインターネット経由でこの町を知ったと言います。ところが日本の若者は、踊り子も川端康成もなじみがないようです。
わたしもこの町で、興味をもったのは井上靖の「しろばんば」でした。それでも「伊豆の踊子」に誘われるように旧天城トンネル(写真)を車でくぐりぬけました。<00.01.13>
☆ 自戒の一冊
演劇評論の
尾崎宏次さんの訃報がのっていました。戦前の築地小劇場時代から新劇を中心に評論活動を続けてきた人です。評論も新聞の劇評をちょっとみる程度、会社の大先輩だったのですが,会ったこともありません。
しかし学生時代から縁がありました。新聞記者を目指す直接のきっかけが尾崎さんが書いた「パッカードに乗った森の石松」(カッパブックス)だったからです。社旗をはためかせた外車を乗り回し、威勢良く走りまわる新聞記者、
だけど外からみると、なんにも分かっちゃいない、調子ものの「森の石松」なんだよ、と自嘲気味に書いていました。新聞記者を目指していた私にとっては自戒の一冊でもありました。大事にしていたその本はなくなってしまいました。いまも古本屋で探し続けています。
☆ セザンヌ展

横浜美術館の「セザンヌ展」にいってきました。うすらさむい金曜日だというのに会場は混んでいました。やはり日本人好みの画家なんですね。
意外に淡い色調にほっと安らぎを感じます。作品はどこかで見たような懐かしさを覚えました。意外に淡い色調にほっと安らぎを感じます。
安井曽太郎や白樺の人たちの絵でした。セザンヌの日本絵画への影響を改めて感じました。もう一度、ゆっくりみてみたい美術展でした。<99.11.12>
☆被災都市 神戸

久しぶりの神戸でした。ビルが新しく新開地の風情でした。それががんばる姿だったんです。メリケン波止場には震災の跡(写真)を残していました。それをみて改めて地震のすごさを体感しました。
楠本神戸市国際部長に案内してもらいました。もらった名刺は「復興局」とありました。その復興は。 神戸港の利用はなんとか震災前の8割までは戻したんですが、残り2割はなかなか戻りそうもないといいます。
震災前、15あった領事館は、いまは韓国、ペルーの2館だけ。震災を機に大坂に移って、そのままだという。震災の後遺症は深刻でした。<99.10.24>
☆ 落ち着かない親父さん
友人の息子さんの結婚披露宴に列席したら 同じテーブルに落ち着かない親父さんがいた。30分置きぐらいに席をたってロビーで電話をかけている。もらった名刺には、「丸山エンタープライス社長」とあった。
この日はプロゴルファーの息子の優勝をかけての一戦。その途中経過が気がかりだったとわかった。
ゴルフには関心がないが、翌日みたスポーツ面に獲得賞金2300万円とあった、なるほど、金の卵というのはこういうことなのかな、と変に納得していた。「そうじゃない、負け続け、再起の一戦だったので心配だったのだ」とゴルフ好きの同僚が教えてくれた。
☆ 炭坑の町はいま

福島県のいわきに行ってきました。かっての常磐炭坑の町という印象しかない町でしたが、いってみると海と山に恵まれたところでした。蛙を詩に読み、お人好しの草野心平さんのふる里だったのです。山にある文学館で展示の詩を読み、
ふっと見上げると、なだらかな阿武隈が光って見えました。塩屋崎灯台からみた浜辺は白い波頭がみえまいた。
☆ 生涯修行 松原さん

きょうは穏やかな老人に会った。禅僧で92歳の
松原泰道さん。名古屋から戻ったばかりなんです、とにこやかに迎えて下さった。
「今日は暑いですね。さあ上着をとって気楽にしてください」と気遣われる。かくしゃくと言うのはこの人をいうのだろうか。こちらの話をメモしながら確かめる。毎週、カルチャーセンターの講師を勤め、いまも執筆活動に忙しい。
いただいた近著には「生涯修行 臨終定年」と書かれていた。あすは「敬老の日」。<99.09.14>
☆ 朝顔博士

遅くなりましたと庭の朝顔がぽつんと一つ花をつけた。薄紫の小さな花だ。もう10年前にさかのぼる。家に来た同僚が10粒ほどの種子を持ってきた。三重の支局時代に知り合った朝顔博士からもらった珍種だという。
その年、蔓がない、花が二重、蔓が下向きに延びる、鮮やかな江戸紫、と4種の朝顔が育った。
種子をとりわけた2年ほどは珍種が続いたが、ある年、種を取りおくれて翌年は混合咲きになってしまった。二重咲きが消え、蔓なし、蔓が下向きになる花がなくなった。「先祖帰り」がすすんでただの朝顔になってしまった。
ことしの薄紫には、かっての江戸紫の面影がちょっと残っているように思える。伊賀上野の朝顔博士もずっと前に亡くなって、種子も散逸してしまったと聞いた。
☆ 阿国の里で
阿国を追って出雲に行ってきました。伝承の女性は、この国では縁結びの神に押されてひっそり陰をひそめていました。地元の女性の研究家は「ここは男性優先社会です。
元気な女性、阿国を余り持ち上げたくないんでしょうね」と笑った。日御碕の夕陽は鮮やかでした。<99.07.29>
☆ 評論家の死
江藤淳氏が自殺した。2日前に本になった「妻と私」を読んだばかり。病床の妻との生活を「大きな滝つぼの手前でボートにのった2人」と書く、はかなさが漂う一文だった。
一人残され、電気、ガスなどの支払い伝票をくる作家。漱石の「狂気」を体現したのだろか。
☆ 高尾産の蛍
東京・高尾山麓で羽化した蛍が、今夜はうちの庭の植え込みで光っています。知人の誘いで出かけた会席亭(写真)で,お土産にもらった3つ。この店の庭の流れで育った蛍だという。
ほのかな光に、蚊帳のなかで光っていた子供の頃の思い出が蘇ります。< 99.07.10>
☆ 羽黒三山の旅
梅雨空をにらみながら出羽三山に出かけた。芭蕉が魅せられたという羽黒山月山、湯殿山をながめ体験したかったからだ。2400段の羽黒山への石段ははなんとか登りきった。
開山前、だれもいない月山は荒れ模様。わき上がってくる雲の中、雨風が容赦ない。木道をはうようにして引き返しました。でも自然と山の神の霊気にちょっとふれた感じ。
地元羽黒町の吉田観光課長、俳人の高城金男さんの案内で、効率よく山をめぐることができたりました。おそらく単独だと羽黒だけの出羽三山巡礼にになったことだろう。もう一度、時間をかけたい山だった<99.06.24>。
☆ 逝った編集局同人
ガンで亡くなった先輩記者のお別れ会に出席した。熱っぽく語りかけた元労組書記長、文字通り沈着冷静、紙面をつくってきた整理記者。東大で美学を専攻、一時は研究者を目指したという高知生まれの「いごっそ」。
20日前の酒の席で、「近頃 背中が痛くって」と笑っていたという。数日後、「転移性肝ガン」、それも末期ガンと診断され、20日後に67歳で亡くなった。病床でワープロを打ち、意識が混濁した中でやっぱり鉛筆を握っていたと聞いた。安らかに。
筋萎縮性側索硬化症で手も口も萎えた
折笠美秋氏をふっと思い出した。彼もまた同じ編集局で鉛筆を握っていて倒れた。学生時代からの俳人。病床でワープロを打ち、やがて奥さんに口述筆記してもらい、声を失ってからは目と唇の動きを読みとってもらった。
病床の句は「俳句研究」に連載された。平成2年没。<99.6.18>
生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き
ととのえよ死出の衣は紡ぎたる
美秋
☆ 近況 即拝見
関西に住む娘の一家からメールが届いた。近くにある「播磨富士」に家族3人で登ったという報告だ。低い山だが足元が不安定な岩の山だった。
添えられた写真から、苦闘の末にたどり着いた頂上のさわやかさが伝わってきた。そんな日常がリアルタイムに送られるパソコンの効用を見直した。<99.6.13>
☆ 忘れ形見の結婚
今は亡い友人のお嬢さんの結婚披露宴に出席した。花嫁の父は20年前に不慮の事故で亡くなった。まだ小学生だった 娘は、父の跡をつぐように1級建築士の資格も取った。 この日、新婦とお母さんの頬には白い涙があった。
「スターターーが好きだったお父さんがいま号砲をならした。幸せに」とメッセージを書いた。この友人は、瀬田川河畔に住んでいたこともあってか 子供の頃からのボート好き。 現役を引退してからも、ボート協会の役員をやりながらスターターをつとめていた。<
99.6.5>
☆ 瀬戸をまたぐ明石大橋
橋桁から見上げた明石海峡大橋は精巧に組み立てられた一大構造物でした。鑿で岩盤を刻んだ「青洞門」を見た目には、時と人間の知恵を改めて感じさせてくれました。<99.6.6>
☆ 猛暑の耶馬溪
出張先の大分県は猛暑でした。蛍の里の山国町では「ことしはまだ寒いから蛍は見かけません」と地元のタクシー会社それでも山間で3つの光を見ました。紅葉名所の耶馬渓は、したたるような緑でした。
泊まった山國屋はかっての文人の宿だそうです。泊められた大座敷の欄間や襖に老舗の貫禄がありました。