イタリア美術の旅 C

 貢の銭 (カルミネ聖堂)

棚橋 弘

 ルネサンスを開花させた花の都・フィレンツェ。その市街を東から西に貫いて流れているのがアルノ川です。
 壮麗な円蓋を戴くサンタ・マリーア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)やイタリア・ルネサンス美術の宝庫ウッフィツィ美術館など、この町の主要な観光ポイントは右岸に集中しています。このため、アルノ川に架かる橋を渡って左岸の教会に足を運ぶ日本人観光客は案外少ないようです。
 しかし、このオルトアルノ地区にも見落とせない教会があります。ブルネッレスキが設計した典型的なルネサンス様式のサン・スピリット聖堂やマザッチョの壁画が残るサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂などです。
とりわけ美術史的にも重要であり、僕にとってはルネサンス美術に関心を持つきっかけになった思い出深い寺院がカルミネ聖堂です。

 20数年も前のことですが、『美術館と名画鑑賞』という雑誌の特集を何気なく開いていて、1枚の絵に目が釘付けになりました。
それは弟子たちを従えたイエスが、聖ペテロに何かを命じている場面を描いたものでしたが、その写実的で力強い表現力や、遠近法を取り入れた重厚で揺るぎない画面構成には、見る者に強く訴えかける力があったからです。それがマザッチョのフレスコ画「貢の銭」(図は部分)でした。以後、この絵を一目見たいという思いが日増しに強くなり、2年後、やっとフィレンツェ訪問を実現しました。

 カルミネ聖堂を訪ねた日の記憶は、もうセピア色の薄靄の中にややかすんでいますが、それでも聖堂右翼廊にあるブランカッチ礼拝堂の壁画を前にした時の感激だけは鮮やかです。
 堂内は薄暗く、柵から身を乗り出すようにして、目を凝らしたのを覚えています。この聖堂は「民衆の聖母」に捧げられたもので、コッポ・ディ・マルコヴァルドの作と考えられています。
 聖母の板絵が正面の祭壇上に置かれています。それを囲む三方の壁は、マザッチョのほか、彼の共同制作者で、師でもあったのではないかといわれているマゾリーノ、そして二人がやり残した部分を完成させたフィリッピーノ・リッピの絵で埋められています。その左・側壁上段に描かれているのが「貢の銭」です。
 

 絵の物語は「マタイ伝福音書」(17章24〜27節)から採られたもので、時間的に異なる三つの場面が同一の画面上に描かれています。中央は、カペナウムの町に着いたキリストと弟子たちに、徴税吏が税金を要求したのに対し、キリストがペテロに「海に往きて釣糸をたれ、初めに上がる魚を捕れ、その口を開かば銀貨一つを得ん、それを取りて我と汝とのために納めよ」と命じた場面。左端はペテロが魚の口から銀貨を取り出している場面。そして右端はペテロがその金を徴税吏に渡している場面です。三つの場面は同じ大地の上に水平的に
展開しているにもかかわらず、強い凝集力をもって空間が統一され、微塵も破綻を感じさせません。しかも、キリストと弟子たちの群像は、いずれも高貴で堂々とした風貌と量感のある生きた肉体を与えられ、画面全体に強い精神性がみなぎっています。

 実はこの絵こそ、絵画におけるルネサンスの到来を告げる記念碑的な作品なのです。「遠近法を発見し建築に明快な空間秩序を求めた」ブルネッレスキが、また「古典に範をとり,個を超越した普遍性のある写実主義で理想の像を刻んでいた」ドナテッロが、それぞれの領域で成し遂げた仕事を、マザッチョは、二人から身近に学ぶことによって、絵画の世界で実現したのです。そしてこれら三人の登場によってルネサンス美術の幕は開かれたといえるでしょう。

 ヴァザーリは『芸術家列伝』のなかでマザッチョに次のような賛辞を贈っています。「マザッチョ以前のものはいわばあくまでも描かれた絵であり、マザッチョの作品はまさしく生きていて、真実そのもの、自然そのものである」「マザッチョの仕事は、その高い完成度でもって、われわれの時代の美しい様式への契機となった点で、無限の賞讃に値する。それが証拠には、以後に現れるすべての彫刻家、画家はこの礼拝堂で模写し、学び、腕を上げ、名声を得るにいたっている」。
 ヴァザーリはそれらの画家・彫刻家として25人の名を挙げていますが、その中にはボッティチェッリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロらの名も含まれています。彼の手で初めて実現した絵画における遠近法と空間表現、さらには自然主義的人物表現で、ブランカッチ礼拝堂の壁画は、15世紀フィレンツェ派の画家たちにとっての最高の学校となったのです。

 マザッチョ、本名トンマーゾ・ディ・ジョヴァンニは1401年、つまり15世紀(クワトロチェント)の最初の年に、フィレンツェ近郊の町サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに生まれ、わずか27歳の若さでローマで死去しました。その死はあまりに突然だったので、彼の才能を妬むものによって毒殺されたとのうわさも流れたといいます。ヴァザーリはまた、彼の善良な人柄にも触れ「無頓着な性格で、絵画一筋、他人に金を貸しても、よほど本人が困らなければ返却の請求もしなかった」と述べています。

 このブランカッチ礼拝堂には「貢の銭」のほか「楽園追放」「共有財産の分配とアナニヤの死」「洗礼を施す聖ペテロ」などのマザッチョの作品がが残されていますが、時間があれば、右岸に戻りフィレンツェ駅前のサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂を訪ね、壁画「聖三位一体」も見ることをお勧めしたいと思います。

*「世界代美術全集11」(小学館)および「ルネサンス画人列伝」(白水社)、「イタリア・ルネサンスの巨匠たち3」(東京書籍)などを参考にしました。


Hiroshi Tanahashi htana@ops.dti.ne.jp

 ☆ 掲載作品

  @「美しきイラリア」
  A「死の勝利」
  B「蝋燭の聖母」
  C「貢の銭」