イタリア美術の旅 B

蝋燭の聖母 (ブレラ美術館)

棚橋 弘

 日本人のイタリア旅行といえば、第一夜をミラノで迎えるツアーが多いのではないでしょうか。僕はミラノに行くと、いつもブレラ美術館を訪ねるのを楽しみにしています。
 マンテーニャの「死せるキリスト」、ジョヴァンニ・ベッリーニの「ピエタ」などヴェネツィア派やロンバルディア地方の画家の優れた作品が多数展示されている北イタリア屈指の美術館だからです。

 ミラノの中心・ドゥオーモ広場からエマニュエル2世アーケード、スカラ座を経てブレラ美術館に至る道は、若い画学生などの姿も多く、しゃれたブティックが並ぶ楽しい通りです。ここには上記の画家たちほど知名ではありませんが、クリヴェッリの作品も何点か所蔵されています。
 彼は地方の町を制作の舞台としたため、ヴァザーリの『ルネサンス芸術家列伝』にも登場することなく、イタリアでも19世紀になって再評価された画家ですが、最近は日本でも取り上げられる機会が多くなりました。

 1457年3月7日、ヴェネツィアの裁判所で、一人の画家が禁固6ヵ月、罰金200リラの判決を言い渡されました。画家の名はカルロ・クリヴェッリ。罪名は人妻誘拐罪。
 訴状によれば、フランチェスコ・コルテーゼという船乗りの妻タルシーアを誘惑、数ヵ月にわたって自宅に軟禁し、「その女性の肉体を犯して、神を侮り、結婚生活の神聖を汚した」というものでした。当時、彼はすでに独立した画家で、年齢は20〜~25歳だったろうと考えられています。これがクリヴェッリの名が最初に登場する記録です。

 僕が、そのクリヴェッリの作品にはじめて出会ったのは、1991年夏、このブレラ美術館でした。「蝋燭の聖母」(1492年と推定、板、テンペラ)。縦2b18a、横75a。聖母の台座の前に一本の蝋燭が立て掛けてあるのが名前の由来です。蝋燭は信仰の光明と慈愛の情熱を象徴しています。帰りにギャラリーショップで、この絵の絵葉書を買ったのを覚えていますから、どこか惹かれるものがあったのでしょう。

 この作品は、カメリーノの大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂主祭壇のために描かれた多翼祭壇画の中央画面です。古典的な落ち着きのある均整の取れた構図で描かれています。構図の正面性はイコンを連想させますが、イコンの持つ崇高さや厳しさはなく、華やかな装飾性がそれに取って代わっています。
 頭上に宝冠を戴く玉座のマリアは、ルビーなどの胸飾りをつけ、黒字に金の刺繍をした豪奢な衣裳を身に纏っています。しかし、そのまなざしは、幼子キリストには注がれることもなく、伏し目がちで、表情はわが子の未来を予見しているのか、憂いと悲しみに沈んでいます。
 幼子は母のひざの上で、洋梨の枝を手に一人無邪気に遊んでいるようです。それが画面にわずかに動きを与えています。台座の前の花瓶に捧げられているのは、純潔の象徴・白百合と、受難の象徴・赤い薔薇です。
 もう一つ、ここで注目されるのは、二人を光背のように囲む、果物をたわわにつけた花綱です。林檎は原罪と贖罪を、さくらんぼはキリストの血を、瓜は処女懐胎とキリストの復活を、梨は徳と真実を、それぞれ意味しています。聖母子の運命を象徴的に予告するこの花綱は、彼の絵に繰り返し登場するモチーフです。

 この絵を見た時の印象を率直に言えば、ルネサンス絵画のもつ自然主義的な生気や迫真性がみられないのが不満でしたが、一方、明晰で鋭い輪郭線と豊かな色彩で細部まで精緻に描きあげられた端正な画面、磨き抜かれた金属のような質感、そこにはゴシック風の洗練された優美さが感じ取れました。

 クリヴェッリは、先の事件でヴェネツィアを追われます。それ以前、彼がどこで徒弟時代を送ったか定かではありません。ベリーニ工房と共に、15世紀ヴェネツィア絵画の基礎を築いたヴィヴァリーニ工房か、それにつながる工房ではないかとの説が有力です。ヴィヴァリーニの特徴である堅固な人物表現と華麗な装飾性はクリヴェッリにも共通しているものです。さらに1450年代には、パドヴァのスクァルチョーネの工房にいたスキアヴォーネやマンテーニャらから影響を受けたと見られています。現存する彼の最も初期の作品「受難の聖母」(1460年頃)には、すでに果物の花綱や枯れ木などスキアヴォーネの作品と共通するものが見られますし、台座の前の一本の蝋燭はマンテーニャの「聖セバスティアヌス」にも描かれているものです。

 ヴェネツィアを追放されたクリヴェッリは、一時パドヴァに身を置き、ヴェネツィアとアドリア海を隔てたダルマチア(現在のクロアチア共和国の一部)で10年近くを過ごしたようです。そこはスキアヴォーネの故郷でもありました。その後、彼は再びイタリア本土に戻りますが、その場所は、イタリア中部・マルケ地方南部の町フェルモでした。フェルモ近郊のマッサ・フェルマーナのサン・シルヴェストロ聖堂には1468年の年記と署名を持つ多翼祭壇画が今も残されています。それ以後はこの地方で繁盛した工房主として、各地の聖堂のために大型の多翼祭壇画を次々と制作していきました。ポルト・サン・ジョルジュ聖堂の多翼祭壇画(1470年頃、各地の美術館に分散)、モンテ・フィオーレのサンタ・ルチア聖堂多翼祭壇画(1471~72年頃、各地に分散)、アスコリ・ピチェーノ大聖堂の多翼祭壇画(1473年、同地に現存)、同地のサン・ドメニコ聖堂の多翼祭壇画(1476年、現在一部ロンドンのナショナル・ギャラリー蔵)などです。

 クリヴェッリの芸術は1472年制作のモンテ・フィオーレの多翼祭壇画、あるいは73年のアスコリの多翼祭壇画で、独自の洗練された様式による完成を見たといわれています。美術史家・吉澤京子氏は、この時期の作品について、「おだやかな輪郭線と落ち着きは次第に影をひそめ、高価な布地をふんだんに使った豪華な衣装を身にまとう登場人物は優雅な身振りを呈しつつも次第に神経を高ぶらせ、あるいは物思いに沈み、輪郭線は鋼のように強靭に、頭髪はマニエリスティックに波打ち、そして色彩は明澄な輝きを帯びてくる」(『カルロ・クリヴェッリ画集』)と、述べています。
 そしてその頂点とも言える作品が、アムステルダムの王立美術館所蔵の「マグダラのマリア」でしょう。彼女の冷ややかなまでの艶麗さは抗しがたい魅力を持っています。作家・渋澤龍彦がこの絵に耽溺したのもさもありなんと思われます。「蝋燭の聖母」は彼の最晩年の作で、やや端正すぎて生気に欠ける憾みがありますが、気品のある美しい画面を生み出しているのも事実です。
 「多翼祭壇画の詩人」ともいわれるクリヴェッリは、同時代の画家たちがルネサンスの革新的な表現方法を追求していったのに対し、ゴシック的なものに執着した画家でした。とはいえ、最盛期の彼の作品には、絢爛たる色彩による甘美な装飾性と、強靭な線で刻み込まれた完璧な形態、金属的な触感が互いに拮抗しながら緊張感のある独自の世界を作り上げています。

 ところで、冒頭の事件に戻りますが、「人妻誘拐罪」などというと大罪のように聞こえます。しかし、僕は、船乗りという職業柄、夫が不在勝ちで、孤閨に耐え切れなかった人妻が彼のもとに走ったというのが真相ではないか、と想像しています。ヴェネツィアは東西の海上貿易によって繁栄の基盤を築いていました。船乗りは国を支える最も重要な戦士ともいうべき存在で、彼らに対する共和国の配慮や保護も、それだけ手厚かったと考えていいでしょう。そのことが、今日ならありふれた情事を大罪に仕立て上げたのではないでしょうか。ヴェネツィアを追われたクリヴェッリは、再びヴェネツィアの地を踏むことはありませんでしたが、自分の芸術的出自を誇るかのように、終生「ヴェネツィア人カルロ・クリヴェッリ」と署名し続けました。

*以上は『カルロ・クリヴェッリ画集』(吉澤京子解説 トレヴィル)や塚本博著『イタリア・ルネサンス美術の水脈』(三元社)、『世界美術大全集13・ルネサンス3』(小学館)などを参考にしました。

Hiroshi Tanahashi htana@ops.dti.ne.jp

 ☆ 掲載作品
  @「美しきイラリア」
  A「死の勝利」
  B「蝋燭の聖母」