イタリア美術の旅 @


美しきイラリア(ルッカ大聖堂) 
 
棚橋 弘


 先ごろ、矢島翠『ヴェネツィア暮らし』(平凡社)という本を読みました。
おそらく日本人がイタリアについて書いた最良の本の一冊でしょう。著者は共同通信の記者だった人で、ヴェネツィア大学日本文化研究所に招かれた夫(評論家・加藤周一氏)とともに過ごした八カ月間のヴェネツィア生活を書いたものですが、優れた知性と繊細な感受性、そして歴史感覚を文章から読み取ることができます。


 イタリアはゲーテをはじめ多くの人々に書かれてきました。それぞれに個性があって、イタリアはさまざまな顔を見せてくれます。そして僕もまたいつか自分のイタリアを見つけたいものだと思います。あわただしいパック・ツアーでなく、カフェ・テラスにでもぼんやりと腰を据え、ときにはパラッツォから聖堂へ、聖堂から広場へとさまよい、歴史の流れ中に身をゆだね、街が、そして時が密やかに語りかけるのに耳を傾けられたらどんなにいいだろうかと想像します。
 かつてトスカーナの自治都市として経済的繁栄と豊かな芸術を生み出したルッカもそんなことを感じさせる街です。そこには多くの人々に愛されてきたあの「美しきイラリア」の像もあります。次の一文は一昨年秋訪れたそんなルッカの記憶のひとこまです。

 朝のルッカ大聖堂の静寂が張り詰めた空間。
街を囲む城壁の上の、緑濃い遊歩道から行き着いたばかりの身には、その静寂に込められた祈りの深さが、重く感じられます。
 右翼廊の一画にあるイラリア・デル・カッレットの彫像を載せた大理石の墓碑。石棺の上に仰臥するイラリアの高貴で清純な面立ち。組み合わされた手のほのかな温かみ。衣裳の襞の柔らかな線の流れ。
 その姿は今眠りについたばかりのようにも見え、かすかな寝息さえ聞こえてきそうなほどです。足元の小犬は彼女の夫への貞節の証し。棺の側面には花綱を持つ童子(プット)たちの姿が刻まれています。これはローマ時代からの伝統に倣ったものでしょうが、その生き生きと愛らしい姿は美しいイラリアにいかにもふさわしいものに感じられます。

 イラリアは15世紀前半、ルッカを支配したパオロ・グイジーニの二番目の妻です。
墓碑は、若くして逝った彼女の死後間もない1406年、シエナの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャ(彼は1401年に行われたあのフィレンツェ・サン・ジョヴァンニ洗礼堂北扉制作のためのコンクールにも参加しています)によって制作されました。
 しかし、グイジーニが失脚すると、市民は憎しみのあまり、グイジーニの記憶につながる一切のものを破壊しました。イラリアの墓碑も一時はこの運命を免れませんでしたが、その美しさを惜しんだ市民たちの手で、再び蘇ったのです。ヴァザーリは『ルネサンス芸術家列伝』(白水社)のなかで次のように伝えています。
                 

 「彼ら(市民)がこの像と多くの装飾の美しさに抱いていた尊敬の念が、彼らを自重させ、ほどなく石棺と像は、注意深く聖具室の傍らに据えられることになった」。
 イラリアは今もそこに、永遠の若さと美しさに守られながら、眠り続けています。 このイラリアの像は、ヤコポ・デッラ・クエルチャの代表作の一つであり、同時にイタリア墓碑彫刻の傑作の一つでもあります。

 その前に佇んでいると、魂が魅入られて、立ち去りがたい思いにとらわれます。できることなら、そっと手をふれ、その肌の温もりと微かな呼吸を確かめてみたいとさえ思いました。19世紀に生きていれば、ラファエル前派の画家たちは、人妻でありながらなお失わない、その清純な魅力ゆえに「ファム・ファタール(運命の女)」に擬したかもしれません。

 聖堂を出ても、その姿は脳裏から消えず、街の小路の賑わいの中に戻っても、いつまでも白昼夢の中にいるようでした。その時ふと、自分が彼女の「死の影」とともに歩んでいるのかもしれないという思いにとらわれたのです。
 いささか感傷的な文章になりましたが、いつかルッカを訪ねる日があれば、ぜひイラリアの像に会われることをおすすめします。聖マルティヌスに捧げられたルッカ大聖堂は、正面に三つのアーチと、その上に三層の列柱が並ぶ開廊をもつピサ・ロマネスク洋式の建築で、そのアーキトレーヴの「月暦と労働」の彫刻や、巡礼者たちの厚い信仰を集めた「聖なる顔」と呼ばれる12世紀の木製のキリスト像、ティントレットの「最後の晩餐」など見るべきものが他にもあります。(た)

   Hiroshi Tanahashi htana@ops.dti.ne.jp

 ☆ 掲載作品

  @「美しきイラリア」
  A「死の勝利」
  B「蝋燭の聖母」
  C「貢の銭」         
 
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棚さんの美の旅